会津の旅人宿 地域との交流・旅人との交流が盛んな【会津野】宿主ブログ

地域の話題、旅人のホットな話題、季節のおいしい食べ物の話題など、会津へ旅する人々への話題中心の宿主ブログです。

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【会津野】ペレットストーブ

2016年10月31日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

宿の食堂に「ペレットストーブ」を導入しました。

ペレットというのは、「おが粉」や「かんな屑」を固形化したもので、木材からできているもの。

こんな形で売られています。

1袋10Kgのもので600円くらいで売られ、導入したペレットストーブでは、10Kgで12時間〜16時間ほど使えます。

左の英文字が記されているものは新潟県産、無地のものは福島県磐梯町産です。

以前、会津美里町の木材の状況を調べたことがありますが、大事なことは、燃料が地産地消ということ。

まだ並行して使っている灯油ストーブを、少しづつ木質バイオマス資源に置き換えていこうと考えています。

使用してみての灯油との違いは、ぬくもり方が「やさしい」ことと、「木の香り」がすること。

なんだか家の中で焚き火をしているような感覚です。

火遊びが好きな方(?)は、冬の会津野へぜひ遊びにおいでくださいね。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

※コメントは、旅人宿会津野Facebookにて承ります。
※ご予約は、旅人宿会津野ホームページにて承ります。


【会津野】いまあるものに少し手を加えればだいぶ良くなるんじゃない?

2016年10月30日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日の紙面に気になる2つの記事が日経にありました。

ひとつは二次交通整備のこと、もうひとつは自転車のシェアのことです。

二次交通とは、例えば東京から会津までの鉄道や高速バスを会津若松駅のようなターミナルで下車した後、旅人宿 会津野というような地域内の目的地まで利用する交通手段のことを言います。二次交通の現状としては、昭和40年台の人口ピークから続く地域住民の減少により、ターミナルから離れた二次交通が必要な地域への交通は、衰退の一途をたどっています。なぜなら、その二次交通により利益を受ける過疎地の住民減少が相当進んだからです。

観光という切り口で人々が移動する場所を考えると、二次交通が途絶えたために埋もれてしまった価値ある観光資源が眠っていることも多々有ります。

そこで、2011年の東日本大震災以降、急激な伸びを示しているインバウンド(訪日旅行)への国からの交付金を活かして、二次交通を整備しようというのが、ひとつめの記事です。

ここでは、秋田県秋田市、男鹿市、大仙市、仙北市の4ヶ所で、東北観光復興対策交付金を原資として整備される二次交通を紹介していました。

会津美里町では、町内を運行する「あいあいタクシー」という二次交通があります。これは町内の市街地と山村を結ぶバス路線が廃止されたときに誕生し、病院などへ行くお年寄りが主な利用者です。タクシーなので、町内ならばどこへでも行けるのですが、主な利用層であるお年寄りは病院が開いている平日の、それも午前中の利用が多いため、夕方や土日の運行がされず、観光向けには事実上使えない残念なことになっています。

ただ、この交付金は、福島県も対象の範囲内ですので、秋田県と同じ手法で福祉的な意味合いと訪日旅行、さらに国内旅行の利用へと大きく内容を変更することも出来るのではないかと思わせるようなものでした。

もうひとつは、自転車シェアのことです。

会津三十三観音が日本遺産に指定されて以来、会津野から貸し出す自転車で観音堂めぐりをするお客様をお見受けするようになりました。ただ、この形態は、宿に着いた後の交通手段ですので、二次交通というよりも三次交通というべき利用形態です。

記事の内容は、民泊のように個人の所有物である自転車を、みんなでシェアしようというもの。具体的には、ソフトバンク社が鍵アプリを開発し、自転車提供者と利用者をマッチングし、マッチングが成り立ったら自転車のロックを解除して利用できるようにするものです。さらに、自転車に登載されるGPSが位置を感知し、マッチングや利用料金などに反映させます。

会津盆地内の平場に観光資源が集中している会津美里町では、こういう自転車の二次交通的利用も可能性があるのではないかと思います。それも、現在各自が所有する自転車を役立てればよく、アプリ導入などに多少の補助をすれば良いのではないかと感じます。

いまあるものに少し知恵を加えれば、現代に役立つ仕組みを構築出来るような気がしてきました。ただ前者は、現状を変更するということに拒絶感を持つ役所という組織に働きかけなければならないことなので、役所が内発的に考えて行動するようなことを考案する必要があります。いまは、役所の職員に対し「君なら出来る!」とプライドをくすぐることくらいしか思い当たりませんが、心理的な良い方法をお持ちの方がいらっしゃいましたら、その手法をお寄せいただけますと幸いです。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】小室直樹の世界

2016年10月29日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

昨日のエントリー【会津野】ある会津人の生い立ちでは、ある会津人と称し、その少年時代のことを書籍から引用して紹介しました。

その書籍は、「小室直樹の世界」(橋爪大三郎、宮台真司、盛山和夫、志田基与師、今田高俊、山田昌弘、大澤真幸、伊藤真、副島隆彦、渡部恒三、関口慶太、村上篤直共著、ミネルヴァ書房、2013)です。

この本は、会津出身の小室直樹博士が亡くなった2010年の翌年の2011年3月に行ったシンポジウムでのやりとりが、主な内容になっています。

登場する人物は、大学とは離れたところで私塾を開いた小室博士から教えを受けた人々がほとんで、現代を代表する社会学者が数多く名を連ねています。

小室博士は大学時代、数学と物理学の本質を究め、経済学、社会科学へと進んで行った方で、社会的な出来事や仕組みを理系的に論理だてて言葉で説明するところに特長があります。

ところどころに出てくる「社会科学」という言葉、最初は「社会」と「科学」という言葉がつながっていることに違和感を持ちつつも、読み進めているうちに、「社会も科学的に説明出来るんだ」と腑に落ちる感覚を得ました。

以前、マーケティングの勉強をしたとき、都合の悪いデータを省いてしまう説明を講師から受け、そんなことで正しいマーケティングが出来るのだろうかという疑問を感じたことがあります。小室博士は、理系的である「普遍的」な「構造ー機能」を追求した方ですので、なんちゃってマーケティングのようなことは決してありません。社会のあらゆることを、人間生活の長い期間を通じた膨大な古典から得る学術的な理解を背景として、普遍的な分析をこなすことに、感動すら持って読みました。

もうひとつ、なるほどと思った点があります。

それは、会津出身の政治家渡部恒三氏の江戸時代以降の歴史観と、この本にでてきた副島隆彦氏の歴史観に大きな違いがあること。ここには、表面的に現れる「良い事実」とその裏に隠れる「諸事実」をどう読み解くかというところに違いのポイントがあります。現代から見れば、江戸時代や明治時代の出来事は、すでに古典というほどの時間が経っています。こられの古典を正しく解釈し、普遍事項を現代に活かす手法を学ぶ必要を強く感じたところでもあります。

小室博士がご存命のうちに知りえず、一度も講演を聴く機会がなかったことが悔やまれます。

ただ、小室博士の著作は、「憲法」や「近隣諸国の社会構造」などの分野で数多く発表されていますので、これから読み進め、理解を深めていきたいと思います。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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【会津野】ある会津人の生い立ち

2016年10月28日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

先日来読んでいる、ある会津人の生い立ちがあまりにもスゴイので、今日はそれを紹介します。

誰のことだか想像しながら読んでみてくださいませ。

★ ★ ★

1932年(昭和7年)9月9日、東京府荏原郡玉川村(現・世田谷区奥沢)に生まれる。父、隆吉、母、チヨ。父は同盟通信社の政治部記者をしており千葉の地主でもあった。母は、看護師で東北大学聴講生として医学を学んだ才女。兄弟姉妹はなく、ひとりっ子だった。

1935年(昭和10年)3歳。父は、厳格を絵に描いたような性格であった。母を、「お母さま」と呼んで育つ。

1937年(昭和12年)5歳。父、亡くなる。都内を転々とした後、母の実家のある福島県河沼郡柳津村(現・柳津町)に転居。母方は、会津の士族であった。会津では、薩長を見たら敵と思えという精神が当時も残っていた。そのような環境の中で育つ。

1939年(昭和14年)7歳。4月、柳津尋常小学校入学。小学校時代の愛読書は「少年講談」。その影響で、「征夷大将軍」になりたいと思う。そして、実際に身体がズバ抜けて大きかったこともあり、ガキ大将となって「征夷大将軍」を自称、クラス全員の禄高を決めた。加増からお家断絶まであった。刑罰には、蛇責めの刑、掃除箱の刑などがあった。組織化するのが大好きな、社会的ガキ大将だった。

1940年(昭和15年)8歳。4月、柳津尋常小学校2年生。

1941年(昭和16年)9歳、4月、柳津尋常小学校は柳津国民学校へ改称。柳津国民学校3年生。

1942年(昭和17年)10歳。4月、柳津国民学校4年生。

1943年(昭和18年)11歳。4月、柳津国民学校5年生。

1944年(昭和19年)12歳。4月、柳津国民学校6年生。この頃、男組の番長だった。あるとき、男組と女組との番長戦となった。結果、女組の番長にぶっ飛ばされて負けた。実は、女組の番長に淡い恋心を抱いていた。しかし、「俺のことをぶっ飛ばすような女とつきあえるか」と思って、あきらめた。復員兵が可愛がっていた猫をトラバサミにかけて掴まえ、食べてしまった。それを知って激怒。返り討ちとばかりに、その復員兵をトラバサミにかけて捕らえ、鉄棒で襲いかかって半殺しにする。

1945年(昭和20年)13歳。3月、国民学校を卒業。4月、旧制中学校であった会津中学校に入学。1年6組。同窓に渡部恒三(後に政治家)、渡部喬一(後に弁護士)がいる。会津若松市内の伯母のもとに預けられ、母は千葉県で看護師として働く。

1946年(昭和21年)14歳。4月、会津中学校2年生。天才少年ぶりを発揮。同級生が代数幾何で苦しんでいる頃、微分積分を理解し、同級生がABCに毛が生えた程度の英語で四苦八苦している頃、ウエブスターをひいて「ライフ」を読む。この頃の愛読書は、高木貞治「解析概論」。一番の特技はケンカだった。

1947年(昭和22年)15歳。4月、会津中学校3年生。ケンカや遊びに明け暮れる毎日を送った結果、中間試験で数学の点数がひどく悪かった。そのため、先生に呼び出されてさんざん説教される。しゃくにさわり、真面目に勉強した。学期末試験では試験時間の3分の1で全問解答し終えた。そこで答案用紙を提出して出て行こうとしたところ、先生から一言、「コラッ!できなくたって考えるくらいはしろ」。しかし、答案を見たとたん先生は青くなり「悪かった、百点だ」と誤った。これを痛快に感じ、以降、真面目に勉強するようになった。

1948年(昭和23年)16歳。3月、会津中学校卒業。4月、受験なしで新制高校の会津高校に入学。入学式に紋付羽織袴で臨み、皆に笑われた。教師の小林貞治が「目立つことをするな」と叱ると、「それはおかしい。本来なら親同伴で臨むべきところ自分は生徒だけだからと思って父のものを借りてきたのであって、笑うほうが間違っている」と論理的に反論した。会津高校同窓に、渡部恒三、渡部喬一がいる。高校時代から金銭感覚は欠落していた。授業料に充てるべき奨学金をすべて本代に使い、食べるものも食べないで読書した。そのため、授業料滞納で退学予告通知を受けたこともあった。そんなときは、教師の小林が彼の読み終わった本を買い上げ、授業料とした。また、マントを売って本を買い、冬の間マントなしで震えながら通学した。授業中は腕組みをし、ほとんどノートをとらないで記憶した。高校1年で、3年までの教科書を全部読み終える。数学と英語はズバ抜けて優秀だった。しかし、絵画と音楽は全くダメだった。体育もからきしダメだったが、ケンカはめっぽう強かった。相手が自転車のチェーンを振り回してきても、常に素手で戦った。ケンカ相手が多く、一度にケンカすることができないため、今日は誰、明日は誰と登録し、狙ってケンカした。鶴ケ城本丸がケンカの舞台だった。この頃の愛読書は、英雄たちの伝記。ヒトラー、ナポレオン、シーザーアレキサンダー大王、ダビデ王など、善悪の評価はともかく、時代の変革に挑んだ英雄を好んだ。

1949年(昭和24年)17歳。4月。会津高校2年生。高校2年までで、大学生レベルの数学や物理学を独習する。この頃、ホイッテーカー「解析力学」を読み、自然現象のエレガントな分析に感動。理論物理学の世界に魅かれた。彼の天才ぶりは伝説になるほどであった。「野口英世の再来」ともいわれた。この都市、湯川秀樹がノーベル賞をとったこともあり、周囲からは「湯川さんがノーベル賞をとったので野口英世の名声が少し落ちた。会津人としては面白くない。今度はお前がノーベル賞をとってこい」といわれた。この頃、彼は級長に推薦されそうになった。そこで彼は条件を出した。1つ、級長になったら俺のことを「キング・オブ・キャットランド」と呼ぶこと。1つ、王(キング)の命令には絶対服従すること等。しかし、その場で拒否され、級長にはなれなかった。高校2年のとき、預けられた伯母の家が貧乏だったこともあり、退学寸前に至る。そこで、渡部恒三の口利きで、渡部の父親の友人、弁護士の岩崎光衛宅に書生として住み込む。住所は福島県会津若松市栄町1丁目。彼は渡部から「これから岩崎先生のお世話になるのだから、家の掃除をするとか、庭に水をまくとか、一生懸命仕えないとだめだ」と言われた。その翌日は雨だった。しかし、彼は渡部の助言に従って庭に出て、一生懸命水まきした。彼は世間知らずであったが、無邪気でスレたところがなく、なによりも熱心に勉強した。独学で弁護士になった岩崎は、そんな彼を息子のように可愛がった。彼を養子にしてもよいと考えていた。この頃、岩崎光衛や会津日報社の社長だった鈴木忠助らの呼びかけで、彼の後援会が結成された。後援会による彼への援助は、彼が大学3回生になる直前まで断続的に続いた。

1950年(昭和25年)18歳。4月高校3年生。卒業が近づき進路指導がはじまった頃のこと。彼は「大学へは行かない。磐梯山の麓に庵を結んで諸葛孔明のように三顧の礼をもって首相に迎えられるまでは動かない。首相になったら新憲法を数年間停止して、独裁政治をやる」と言って教師を困らせた。

1951年(昭和26年)19歳。この頃、大学受験のために受けた進学適性検査の成績が振るわず、東京大学は足切りになった。彼は京都大学理学部を受験し、合格。3月、会津高校を卒業。高校最後の日の夜、月に照らされながら、渡部恒三と2人、白虎隊の自刃した飯盛山に登る。2人は「君は大臣に、オレは世界的学者に」と誓い合う。彼は渡部への友情の記念として贈った原書に、英語で「プライム・ミニスター・コウゾウに贈る」と書き、日本語で「源朝臣XX」と署名した(長谷川注:XXは本人の名前)

★ ★ ★

ずいぶんと長く引用しましたが、この後、彼は京都大学に進み、学者人生がスタートします。ただ、その後も山あり谷あり。2010年9月に亡くなるまで、後進の学者を育てることに力をつくし、現在第一線の研究者たちを排出した功績を持ちます。

さあ、誰なのかは次回のエントリーに書くことにします。

次回のエントリーはこちら→【会津野】小室直樹の世界

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【会津野】人工知能の透明性

2016年10月27日 | 宿主からのブログ

おはようございます。旅人宿 会津野 宿主の長谷川洋一です。

近頃、人工知能に興味を持っています。

2045年に人工知能が人類を超えると言われるシンギュラリティが本当に来るのか?

人類はどういう準備をすれば良いのか?

このようなことが、いま世界で議論されています。

ジャーナリスト平和博さんのブログによると、ホワイトハウスが人工知能(AI)の社会的な影響と制度設計についての報告書「人工知能の未来に備える」という文書を発表したと伝えています。

人類が「判断」を行うというのは、さまざまな情報を集め、最後に決定をするということ。ただ、実態として、日頃のさまざま判断を、人工知能が人類に代わって行う場面が少しづつ増えているのが現代です。

★ ★ ★

私が宿の仕事をはじめる前の若かりし頃、ある航空会社の乗務員スケジューリングシステムに関わっていたころの話をしましょう。

飛行機の操縦士は、飛行機そのものの構造を熟知する必要があることから、機種ごとの免許を持つようになっています。その免許も有効期間があり、適宜飛行技術とともにその更新をしていかなければなりません。ひとつの機種の免許を取るために訓練に要する時間は、年単位の時間が必要で、1人の方が複数の機種の免許を使用出来る状態であることは、まずありません。なので、航空会社は、所有する機種毎に乗務員を確保する必要があります。

路線を運航する際、その地理的な知識や経験も必要とされ、路線ごとに資格が与えられる仕組みになっています。さらに、着陸する空港毎の特異性などもあることから、1年以内の着陸経験も必要とされます。さらに、夜間飛行の経験や夜間着陸の経験なども必要とされています。

このように、運行乗務員のスケジュールを組むには、各資格や経験要件を満足させる必要性と、連続勤務時間が上限を超えないようにすること、1ケ月の労働時間上限の制限、さらに健康状態の制限等々、さまざまな制約条件の元で満足な運航を行うスケジュールを組む必要があります。

20年ほど前は、このスケジュールについて、事前に1ヶ月分を組むところを人工知能と称するコンピュータが、各乗務員の勤務時間などをなるべく均し、経験要件も1年以内になるべく多くの空港着陸経験を満たすよう、シュミレーションしながら最適なスケジュールを作成し、乗員に配布するものでした。

さて、そのスケジュールを組み、日々の運用に入ると、機材の故障や天候での遅延、欠航、さらに乗務員の病気など、さまざまな要因でスケジュール変更をせざるを得ない事態が発生します。そのとき、コンピュータは、事前に組んだスケジュールが満たす要件をなるべく侵さない候補乗務員を担当者の画面上に提案し、ヒトが決定したうえで各現場に指示が出されるようになっていました。このシステムプログラム(アルゴリズム)は、職人的な技能を持つ職員の方々の頭で考える方法(ロジック)を検証し、それをコンピュータに落としこむ手法で開発したことを、よく覚えています。

ただ、現実の運航現場は、乗務員や地上職員のイキな計らいで、当初予想されたスケジュールよりも混乱が収まることや、幾重ものトラブルが重なり、とても分析したアルゴリズムだけでは対応できない事例もありました。

★ ★ ★

さて、このようなヒトが職人的に判断する事柄についても、コンピュータが判断し指示を出してしまうのが、シンギュラリティ以降の人工知能の姿です。

ホワイトハウスの報告書は、ヒトの手が及ばないところでどんどんと判断を下して社会的な事柄を実行していくコンピュータのアルゴリズムを、各企業が秘匿することに警告を発しているものです。

企業は、アルゴリズムが下す結果が、自社にとって利益になるようなアルゴリズムを必ず組みます。また、政府が人工知能の裁判所を運用したら、その時の政治主体に沿った判決を出すようなアルゴリズムを組むかもしれません。

このように、アルゴリズムが恣意的に運用されても、目に見えずわからないという状態が出現するのです。

だから、アルゴリズムの透明性を高めるということが議論されているのです。

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これからの30年は、強欲な人々が人工知能を使い富を集める行動に走りやすい状況が生まれ、さらに格差が広がる方向性となることは明らかなようです。これに巻き込まれないためには、日々の判断を他人任せ(人工知能任せ)にせず、自分の判断と違う状況に出くわしたとき、人工知能のアルゴリズムを疑ってみることが必要です。そのアルゴリズムに透明性がなく秘匿されている場合は、それを切り捨てることも必要でしょう。人類が幸せに人工知能と共存出来るようにするためには、考えなければならない課題は多そうです。

今日も素晴らしい一日を過ごしましょう。

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