問題の様なモノも、不意にある。
「ぶっちゃけ、”隊長”いらないよね」
ニコニコ動画になじみが無ければさほど気にならない話だが。ここには「タイチョ―」他、良いお歳のゲーム実況者らが、居る。今のアプリ版「けものフレンズ3」に、些細な一言だ、意味も全然違うが、それでも、繋がっている訳だ。「ゲームシステムを変更する」時、艦これよろしく、「隊長」の存在は特に、必要性が無いだろう。と言う理解のままだと、上位下達で、「隊長は切られる」訳だが。
それは不思議な帰結かもしれない、かばんちゃんやキュルルを出そうとしたら、そこに隊長の場所は、ある。変更するとしたら、隊長の能力をもっと付加する事に成るだろう、それはその時で無ければ解らないにしろ。
ともかくこの声が聞こえないと、逆に言えば、タイチョ―を踏み潰していく訳だ。ペーネロペーにしろ、クスィーガンダムにしろ、ニュータイプ対応機であり、”彼ら”じゃないと、上手く運用出来ない問題は有る訳だが。ともかく最終的に「現場に責任を負わせない」事を主眼とするのなら、ペーネロペーで行くしかない。
今、「タイチョ―」が必要か否か?はつまり、「ゲーム実況専業者、と言うタレントは必要か?」そう言う問いではある。ペーネロペーに対して、何故クスィーガンダム?と言えば、つまり「環境とプレイヤーは別に考える」か、或いは「環境に対して最大限適応する方法論を求める」か?の違いではある。「アルゴスユニット」を開発する、という名目の”先”が結局はクスィーガンダムなのではあるまいか。その時、クスィーガンダムはペーネロペーの「無駄」主観的な”それ”を総じて切り捨てる事で成り立っており、要するに主観的に「いらない物」を捨てる傾向がある。
正直言うと、「ゲームが面白い」時、”実況者はいらない”のだ。
とは言え、クソゲー認定されたそれを苦痛に塗れつつ”遊んでいる”光景には、同情を禁じえなかったりする訳で。
ある程度の視聴者をキープしている現状、彼らは視聴者に必要とはされている訳だが。
クスィーガンダムはこの時、彼らを捨ててしまう。
ペーネロペーも感想は同じかもしれないが、大賀さんの決定に逆らわないなら、”そこ”は回避する。
当時も今も、クスィーガンダムにはその視点での弱さはあるのだけど。
”これ”が、グラディウスを創ったのだ。
しかし、当時でも多分、「タイチョー」的な人々を切り捨てて、だ。
そこに残るモノはまだ、何かの邪を宿している気は、する。