執着がある。
「お金とは何か?」への、理解の異相だ。
”ここ”の理解では、お金とは「価値」それを担保とした引換券の事だが。
その理解、相対性理論?を土台にした時、或いは”金”の様なモノでしかない。
「価値」の引換券なら、”価値”を量産すれば、お金も増える事には成る。
しかし、”金”でしかないなら、掘り出さない限りは、それは発生しない。
”金”は物質として存在し、物理的な制約を受ける。
100Kgあった金は、どう姿を変えようと100Kgだ。
自分の元に1Kgしかない時?何処かに99Kgが存在する。
「お金持ち」とはつまり、その99Kg側の事であって。
世間にお金が無いのは、金持ちがため込んで出さないから、だ。
ここで、儲かってる、と言う話を聞く。
その時、「彼は不正をしている」と言う疑念が、その主観では消えない。
単に儲かってる彼らは、その自分達は知らない略奪方法を知っているに過ぎないのだ。
ただそれだけの事で、生活や評価にここまで差が出る、これは許し難い。
それだけまだ、その領域では「アインシュタインとあげちう、どっちが上だと思ってんの?」の答えが固定されている、と言う事ではあるが。
その時、そこに会話がある。
「私はガチャで数万円を失った!しかし、取り返す手段がある筈だ!」
「仕事に行きなさい」
「この差は何だ!?」
物理的現象として、「相対性理論」は利益性には見放されてる、と思った方が良いが。
それでも、”ここ”に居る限り、金持ちを、或いは成功者を常に敵と見る事は出来る。
どれだけ惨めな状態でも、意識は正義の中に居られる訳だ。
そして、金持ちへの復讐、それに情熱を燃やす事が出来る、正義の鉄槌を!
剣呑が残っている。
道理なのだろうか。