ともかくお台場に、新たに「ユニコーンガンダム」がめでたく建造された訳だが。
大事な断言として、「無理だ」それはある意味で、非常に良く解る造形には成った感。
建てよ国民ジークジオン!とか煽られても、”それ以上”は出来ない。良く解る納得。
そりゃね、ガンダムは、アニメですから。
そこな。
表側と裏側は一応は、「戦争は紛争解決機構で決着にしよう」そこにこそ同意はあっても、最終的な決着方法に関しては…微妙な温度差がある。昭和の時代は、要するに昭和天皇の決定がその「王の権威」その決定になった、のだ。”それ”に逆らう事は悪だ、正義は勝つのである、それが如何に主観的に見えようと、ともかく昭和天皇を言いくるめた奴が勝者。その時、不可能さえ可能になるのであって。例え間違いでも、それは正義でなければならない。
この結論にある”理解”が、平成に入って暴走してしまう訳だが。それでも、昭和はやはり黄金期、奇妙な安心感と、微妙な特権意識の中で暮らしていたのは間違いなく。その記憶は今だ、忘れがたい物としてあって、その理想を求める時、妙に反論し難い壁はそこに有る。
だから、表側は或いはまだ、その「昭和天皇の後継者」”ここ”では中華思想の皇帝、それを求めている訳だが。結論でそれは、現状の歪さを孕む「偽りの皇帝」を産み、平成の大不景気を招き、数多の災害さえ招いた訳だ。アメリカと北朝鮮、その奇妙な緊張状態は、そんな環境のストレスから来るのだろうか。ともかく現状でその「独裁者」王の権威では無い皇帝を掲げる事は、利益性に致命的な喪失を発生はさせる。
しかしそれでも、そう、ユニコーンガンダムの様に、一機が世界を変えてしまう、そう言うパワーを求める想いは消えないのだけど。その時、それは幸いと言うべきではあるか。
「これじゃ首廻らないじゃないですか」
「頭の中、何も入ってないんですか?」
「頭必要無いじゃないですか」
これは。
ともかくユニコーンガンダムのリアリティそれは、”こういう事”ではある。「無理だ」兵器としてはもちろん、そもそも創れない。ただ、大事な話ではあって、”これ”でやっと解る事はある。「それは無い」それは無理。ちょっと歪みを感じる女性のそれに対しても、明言できる時、そこに何かの安心感はある。地方神社のお祭りに安室奈美恵とかを呼ぶなんて事は出来ないのだ、九尾の狐であっても、ユニコーンガンダムを創る事は出来ない訳だ、そこには物理の壁がある。
漫画ですから。
この辺、「当り前だろ」切ない。
”それ”は、個人的な趣味だ。「無理だ」それは解った上でのリアリティを目指す時、冒頭に「無理だ」それから入ってしまう失望。「ガンダムを創る事は出来るか?」無理とは言えないんじゃないか?でもこんなの創る意味はないわな、危ないし。前の、ガンダム立像の時にはそんな苦笑で終わってしまう話が、冒頭から「ないわー」な、残念ニュアンス。
この辺、バーチャロンでの操作感覚、その失望感に近いのかもしれない。「なんでジャンプしないと敵の方向かないん?」実際のロボットでそんな事するんか?この辺、原案側の意向として「それは無い」から始まるから恐らくはこうなる訳で…そもそも「実在する可能性は全否定する」様な価値観は、そもそも起こさない事を考える時、確かに大事な話なのだけど。
昭和だったらこの時、「王の権威」或いは昭和天皇は”これ”を、強制的に改訂出来たのだとは、思う。それはそれで、その時理不尽にその、「存在する必要など無い」断言は踏み潰される事になる、訳だ。この対立する意向に、優劣は有るだろうか?最後は何処に聞くべきか?王の権威なら独断と偏見で決めて良いのか?結局、それを考えると。
「大賀さんに聞こうか」
戦争だ、と言う事に成って、”そこ”で何らかの、仮想現実とは言え、「物理的な決着を付けて」方向を決める事にはなる…、訳だけど。
その否定感は、重い。だからこそまだ、表側には「電影旅団オーガ」その、バーチャロンの操作感覚をもうちょっとリアル寄りにした物は無い、訳だが。ただ”それ”は結局、何処かに独裁者を産む訳だ。
正義は、どっちだろう。