それを邪悪と言うべきか、否かだ。
それはその視点では、至極まっとうな権利である。
絵画が10枚ほど、ある。
そのどれもが、単一の画家によって描かれている。
一つの絵画が、最終的に10億円程度の値を持った。
奇妙にか、そのそれぞれの絵は、何かの”共有する部分”を持っていない。
その時?結果で、この10枚の絵画には、「人類全て」が載っている、事に成る。
「この世界は全て私のモノだ!」
を、この時、この画家は言えるのだ。
一応、そこまでの価値を持つ絵画を描く、という事は。その画家がそう言う横暴を言う、それは無いだろう。その世界はその10億人が問題なく「良い」暮らせる、そう言う世界その、理想として有る。結局、その時、平等公平、守られる権利、安全その他、そう言う事に関しても、その絵の中には描かれている事になる、そこに独裁者は居ない、筈だ。
…とは言え?画家は言うだろう、この絵画は全て私の絵だ、私が描いた。それは反論し得ない事実であり…単に、この画家が、その強力な、神と言って良い権利、”それ”を横行しないに過ぎない。この世界が平穏で有るのは単に、画家が自身の権利を自分で捨てているから、それに過ぎない訳だ。
理解出来ないな。
呟きは、不意にある。
「全てを平等、公平に扱う」”雅”市場の理想、それを語る上でも、しかし逆にその声は、ある、訳だ。それは、資本論でもその後、問題になっていく何かではある。「出来る事を、なぜやらない?」それは、作者にとっては自身の理想を自身で壊すに等しいが、”それ”はあくまでも作者の理想でしかなく、”それ”を同じ事を他者が要求する時、平等を優先するが故に、その時、そのためらいはある。
例外はある。
それは、今、どの程度通る話か。
「売らなければ良い」自身のモノでしかないなら、自身の理想を主張して問題は無い。だから、独裁創作は買い手が付かない、と言うのはまあ一つの原理としてはある、のかも。とは言え、生前は上手く機能しても、死後には自然、所有者が変わるのだ、その時、その理想は維持されるのか。そして、「世界を自身の思う通りにしたい」その衝動もまた、「有る」消えない何かとして、常にはあって。
最善解と言うのが、ちょっと不透明な現状ではある。「全てを思い通りに出来る椅子」それがある時、それを手に入れたいと言う衝動は?作者が居た様に、残る。人々がその世界をその様として望むなら、”それ”を手にしようとするのは悪だ。しかし?逆に改善すべき場所があるなら、誰かがその椅子に座らねばならない、それは真実としてか残る。
今、その、「自身に都合の悪いブロンド美女を殺してしまった存在」それは、何処に居るものか。そして、その野心はどうなったか、或いは、それは悪か。
ともかく、「全て」その中には、邪もある。
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