魅力?と実在性には、相関関係はある。
”それ”がやっぱり存在する可能性…それが無いと?どうも興味も向かないのだ。
と言う結果、従来の創作では大概、キャラクタには「モデルの人」が発生する。もちろん?その声を拾ってる訳じゃないのだが、何かの結線は、この”声”にリアリティを持たせてくれる。
群体の声、と言うのが、やっぱり有る訳で。
”その”シンボルを「好ましい」と思う人々の中で、誰の意見が正しいか?と言う時、それはもちろん、時には”その当人”こそが一番発言力が有る、モデル本人の意見こそが、そのキャラとしては一番正しい訳で。すると?不意にキャラクターが、そのモデル本人と同化し始める、訳だ。それはあくまでも多数決の一票に過ぎないが、その意見は無視出来ない時?そのシンボルの声はどんどんと、本人とシンクロし始める、が。
本人じゃないのだ。
本人より影響力のある声、というのもその時、勿論あるのだ。
その時、「最善」或いは正しい、そう言うのは、やっぱり歪んでくる。
解っていても、どうも無視して良いやら悪いやら、無視しようにも頭の中で響く?そう言う場合も、ある。
最近か、「マンガでわかる異世界冒険の書3巻」と言う漫画の中でこの辺の話題が不意に出た事が有るので、自分だけの感覚じゃない、と言うのは多分ある。ある程度の確立したかの人気
が出る時、もしくはそう言う現象が発生する、訳だ。一つの作品かキャラクターに声が聞こえる位の無視出来ない量の意識が集まってる、訳で。そうなった状態で描かれる作品は逆に、現実へのフィードバック効果も勿論発生する訳だが。或いはここには意外と直ぐに到達しても、ここから対処出来なくて破綻する、のもここからではある。
幸運と不運は或いは、セットでやってくる訳だが。
理想を提示する結果が、必ずしも自身に理想を発生させる訳でもなく、逆に、隣の家でたわわに実る果実を見て、”それ”を得る為に頭を下げてその家にバイトに行くか、それとも?には、微妙な剣呑は発生する事には成る。
世界は今まで、後者を選択していたのだ。
正義とは、何か。