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あげちうのブロマガ

遊戯と言う名の苦痛に挑む

考え方ではある、一人二人に本当に死ぬほど苦労させるか、万人に苦痛という労苦を与えるべきか。

今のところ、「ゲーム」それは、その後者の方向性が強い、そう言えば、そう。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

「遊び」と言う名で、その時それは何を求めているか

 

創作の利益性それは、「無駄」それを、そうとは思わせない所には、ある。一時間ほどの?適当な苦労の末に与えられる清涼飲料、それに成り得るか否か?がその創作の「価値」それを決めていく。良くも悪くも、そもそも「仕事」とは務めて強いられる行為であり、ぶっちゃけ人間性の喪失に他ならない。矛盾した構造?とも言えるが、”その結果で”お金を、自由を買う負債を得る訳だ。それを得て初めて、人は「人としての自由」を許される事には成る、人間性を回復させるチャンス。現実は牢獄の様な物だ、というのも一部真理だ。

そう言う苦痛を和らげるが故に、そこには対価を要求し得る「価値」それが発生する事には。

前にも考えたが、例えば映画とは、「2時間前後、みんなで椅子の前で座っている」だけの行為ではあり。”それ”に対価が発生する、という事がまあ、一つの視線からすればイミフではあり。そのイミフを超えて初めて創作は価値を持てる訳だがその為には、「そう思わせない内容」が必要には、成る。ともかくその要求される内容を持てればそれは、無から有が発生した、と言える訳だが、そこには時代の問題と言うのは深刻にある。

「スペースインベーダー」は、基本的には「多勢に無勢って奴は如何ともし難い」挑むのは愚かな行為だ、的な主張がまあ強い。それが”正しい”からこそ当時「面白い」評価には成った、訳だが。この時つまり、「1面で終わった?まあそんなもんよ」と言う返答はそこにある、戦場で真っ先に死ぬ奴は何処かに居るのだ、それがその時、自分の前で起きたに過ぎない。この結果、遊んだ人々にはその理解が刷り込まれる事にはなるし、その方がまあ、当時の世界としても生き易かったというのは多分、ある。間違った事も言ってないし?それで遊んだその人々が、馬鹿な挑戦を現実的にしなくなるなら社会的な利益でさえある。昭和の当時のゲームは殆どがそう言う感じだった、訳だが。

戦争の苦痛が和らぎ始めた昭和後期には、だんだんと「自己実現の為に」その訓練か体験を要求する様になっていった…そう言うのは変化として多分大きい。個人的な視点では「グラディウス」がそうだが、「これをクリア出来れば売れるゲームが作れるでしょう」それを、結果として見せた感じが”これ”である。未だに感覚は名作と言う位置づけではあるがこれも、次第に状況で世相が変化していくウチに不足が出てくる。ちょうど現在は「定員200名だが」既に埋まっている”そこ”へ挑む事に成る、「そこまでは対応してない」訳で。

良くも悪くも、否定にしろ実現にしろ、「ゲーム」それは、期待する質量それが大分変化しているのは現実ではあろうか。”そこ”に対して創作者が合わせて行かないとそれは期待される利益を持てない。しかし現実にはそこへ更に「文部科学省の意向」みたいなのが載ってきた為に、状況は混沌としていった、そう言うのはある。人々の要求に応じられるゲームが作れなくなっていった時、歪んだ需要が発生した。

良い話じゃない、その時、要求されたのが或いは「売春」だった、というのは可能性だ。

「切り捨てられたくなければ金を払え」徒労に励め。文部科学省が?そう言う事を人々に要求する時、そこに現れるのがガチャゲーとか、徒労の連続とか、そう言うゲーム内容だった、それはまあ一理ではある。そして良くも悪くも、「何処が面白いの?」それにそう言う人々が社会的に排斥された…それも、一面はあろうか。

”当時”のゲームは今、単なるクソゲーでしかないのかもしれない。とは言えそこに投入した物をただ捨てていいか?みたいなのは少し議題にはなる。「あれは単にクソゲーでした」という方が、折れた心が軽くなるという面もあり、「面白い」それは今も、もちろんか混沌の中で見えない。

自ら進んで徒労に近い労苦に挑む時、そこには疑問と言う魔物が徘徊している。

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