「面白い」の、ベクトルの”それ”ではある。
とは思う。
パラリンピックの開会式はこれで。
閉会式はこれである。
「障碍者らの祭典」に対して投入されるモノとして、これらは適当だろうか?
”それ”は愚かさを伴う無意識な自覚、と言うか。
パラリンピック推進派には、しかし「自身らの思想か行動の結果、その障碍者らの欠落は発生した」と言う、そんな自覚はあるのではあるまいか。だからこそ、”彼ら”は、障碍者らへ、犯罪性を内包してさえ、奇妙でさえある評価を向けようとする訳で。
道理として、しかし「自分の思い通りにやりたい!」の結果、飯塚幸三氏の様に、最終的には誰か何かを害するからだ。その結果として発生する損害、その絵が、あの障碍者らの姿…ではある。
”彼ら”には、最終的には施政者の資格が無い、それはまあ、最近少しか、思う話。
問題はしかし、そう言う感じの、精神的にでもさえある「欠陥」と言うそれが、無視出来ない比率で居る、事だ。
原因は、”全て”と言うか、「独裁創作は売れない」それを売れるようにする!努力の結果でしかない。
”それ”を要求する人々こそが、現状を悪化させている邪悪その物である。
快楽でさえ有る。
自分は今回、パラリンピックの開会式も閉会式も、見なかった。前回のオリンピックの閉会式が、あまりにちょっと酷かった、その失望でもあるからだが。ああいうモノを創った人々が、パラリンピックの時は真面目にやるのか?だ。そこに有る意図を考えると、それは評価対象外で良い、そんな気分には成る。前出の”例”は、「きっとこんな感じだったんだろう?」それでしかない。
自身の気に入らない人々を断罪し、邪悪として罰する、それは汚れきったシンクが綺麗になる、そんな何かではあり。個人的な視点では、「正義」それはつまり、そう言う意味には成る。正義の執行、それは状況を理想通りに「綺麗に」する、そう言う行為の事で。
主観だけの判断では、どうしても把握と現実的な対処に、限界はある、とは思う。
とは言え”これ”を気にし始める先に、ひきこもりとか、あの「ゴミ屋敷」とか、そう言う精神疾患もある、それは感じる所。個人に対して、社会的な正義を委ねるべきでは無い、とは思うがしかし。”それ”による過失の積み重ね、だろうか、それは立ち返る事も出来ずに、何かの思考も失いただ、何かの成功体験?その繰り返しを続けている、そう言う感じだろうか?
利益に関して今も、「増税しかない」その断言は、”その”場で、無視出来ない多数派を形成している。的確に成長産業に投資し、その発展による税収の増大を期待する、と言うそれは、その領域には…夢物語以前だ。”それ”は税金の投入を促す方便に過ぎない、「我々」を護る為には必要な事だ。
…その果てに、飯塚幸三氏は、禁固5年の実刑判決を受けた訳だが。
「独裁創作は人を殺す」その理解は今も、どうも他人毎でしかない。
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