それはありがちな事態ではある。
何でか、自分のやろうとする事を期待する人が誰も居ない?のだ。
その方が絶対に良い筈だ、自分は正しい事を言ってる、の先に何故かそれがある。
一人でゲームを草案し創って、ちょっと小銭稼げても良いのでは?
この指向にしかし、先が無い。最終的には誰も、それを期待しない。
少なくとも自分の経験談ではある…この思索は何度挑戦しても、無理だ。
何でですか?
ここにある固執が、ちょっと重いと言うか、淀んでる感じはある。
衝動の原理そのものは、「じゃないと現場は暮らせない」或いは初音ミクの”それ”だろうか、そこには有る、かもしれない。多くの創作者らは貧困にあえいでいる、昔からだ、その中から一人二人が成功者に成るが、潰えるその他大勢に救いは無いのか?
”その”打開として、「ちょっとくらい」そんな先に…それの幻は、でも蜃気楼の様に消えていく。
一応、”この”衝動、「我々はどうやって生活費を得れば」だけなら、「人力発電機」その存在で、多少は緩和される。また、説明は出来る、「仕事」とは他者の依頼を必要とする、創作もそれでなければ利益性は無い、一人で創る限り依頼は無い、それは単なる趣味か、遊びだ。それならそれは、貰うのではなく払う方。
ここで多くは納得はある、その先に人力発電機を置く、それは?一応の「切り捨て」を防ぐ事には成る。
…しかし、元の衝動、「アーティスティックな利益性」そう言うのはむしろ否定され、そして反発は残る。
面倒の一つとしては、飯塚幸三氏の”それ”はある気はする。無理の先で過失が発生し、”それ”を自分の責任と納得出来ない先に、その衝動がある、世の中はおかしい。漫画として「ちょっと面白い」奴を、土台にしたテレビアニメを考えたらなんか全否定され、損害が出て、それは過失としてリカバー出来ない物に成ってしまった。
なんで?
女子高生がロボットを手にいれ暴虐の都知事が潜む都庁へ殴り込みを掛け、倒して人々から喝采、とか言う短編漫画を、長編のリアルアニメにしたら「テロリスト賛美」とか言われ全否定、製作費も回収出来ず作品もなんちゃらで終わった、女子高生のその馬鹿さ加減は今でも語り草になっている、とかそう言う?
主人公の女子高生は、結局は”救えない”訳だ、どうしようも無い奈落に彼女は落ちたまま、だ。
創作への無理解?が、結局はこの奈落を創る訳だが。「リアルとして」始めてしまった手前、今更夢オチも狙えない?と言う、奇妙な袋小路はあって。頑張ったけどダメでした、と言うそれとは異なる、”これ”は最初から「ダメだ」と解ったそこへ、女子高生を送り込んでしまった。
どれだけ罵倒されても、”これ”を打開するアイディア、それは何だか出てこない。
最初の企画その物がまず間違えている、それは有る訳だが。
結局、”ここ”で実際には、重い人的なそれさえ伴う損害は出てしまったから、かも。
途中で打ち切れば良いモノを、何だか意地か何かで最後まで描く結果の、”そんな様”ではある。
打開をせねばならない、何とか、奈落に堕ちた女子高生、それは救わねば。
それは今も、奈落の底だ。或いは「殺してしまった」その結果は現実で、もう取り返しがつかない、のかも。
今も、混沌とはしている。
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