あげちうのブロマガ

正義と言う名の負債の果てに

そこに有るのは強力な特権だ。

自分なんかそうだが、あまり人前に出てどうよ出来る存在でも、無い。
その私生活が話題にされるのは、ちょっと耐え難い部分はあるかも。
「ラブホテルにはカメラが仕込まれてる」それは結構、信憑性のある噂話。
「そんなバカな」を信じてその後、弱みを握られない可能性は、0か。


つまり?


マスコミが何かの凶悪さを見せる時、そこに、妙な抑止が発生してしまう。
そこに「朝鮮王朝の末裔」が、関係者が食い込んでいた時、何が発生するか。

”それ”を何とかしない限り、状況に変化はなかった訳だ。
相手は、或いは今も、利益性を無視した、何かの暴走をしていた。
「犠牲は必要なのだ」それは昭和から続く、何かの定理でさえあって。
”それ”が悪魔と化して暴れてても。
それを昭和は「そう言うモノだ」気にしなかった。
状況は積み重なって悪い。その世代に、自分らは勝てなかった。

自分は、その「犠牲」の位置に居た訳だが。
もちろん昭和と”犠牲”の感覚は違う事に、昭和の人々も気づけないまま。
「朝鮮王朝の末裔」或いはそれを掲げた「アインシュタインの観察者」要するにマスコミ、その妙な、「我々は神だ」我々が報道しないモノは世間に存在しないのだ。その病的なまでに肥大したかの特権意識は。
状況を破綻寸前にまで、やがて追い込んでしまった。

打開が必要だった。

しかし、「犠牲を一切出さない」”それ”が、その時求められた「正義」その条件、だ。

この、或いは今も、彼らの気に入らない?事をした場合の、その先は、何だったか。
そして当時、「軽犯罪の重過失」それはまだ、設定されてなかった。
プライバシーを暴き、それを恐喝とは言えない範囲で強請のネタにする事は、罪に成らなかったのだ。
万引き如き、犯罪では無かった。
それを如何に上手く使うか?そこに、技術的な蓄積さえ有った。

今もまだ、或いは「犠牲は必要なのだ」その思想その物は、滅んだ訳では無い、かもしれない。
ただ、「アインシュタインの観察者」それは、単純な勘違い、愚か者、”そこ”まで言える断言は出来る、そんな奴は居ない、そもそも「観察者」とはそんな存在じゃない。彼らは何の根拠もなく、「私は神だ!」そう、言い切ってるだけの、ちょっとダメな人々でしかない訳だ。

ともかく多分、「軽犯罪の重過失」そのルールによる適用、だろうか。
「中華思想の皇帝」「朝鮮王朝の末裔」問題だったパワーは相次いで、パワーを失ってる。
彼らを重大な防壁に?或いは存在の理由にしてた、「アインシュタインの観察者」それも、存在する理由を失いつつ有り、先日感じた「そうだ!ロスチャイルド家に借りよう?!」そんな妄言を考える程に、お金に困ってる、そんな状況でもある。現状では、「”雅”市場」それが発生する利益性、それに依存しないと生活さえままならない、しかし。

だったら?

状況を抑止しているのは、今は、何だろう?
思想、「犠牲は必要なのだ」それは本当に滅んだのか?

”それ”は、本当に、犠牲を出さないのか。

人間の欲望とは、果たして?



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