それは、超えようとする感情に起因するのか。
それとも、もっと違う歪みから、なのか。
唐突にか解る事だったが、「アルカディアでテトリスの完全再現は無理」だ。テトリスの落下ブロックは6つ、それぞれ色が違うが”その”再現が出来ない。色々考えるに現状では「4色しか同時に発色できない」という時、ブロックからは色が消える事になる。
ただその場合でも、「ブロックに色がついてない」だけでゲーム性その物は変わってない、そこで妥協できるか或いは?そこでふと、不穏さがあって。
今の「オーダー元」それは、”その先を要求する”のだ。それはそのまま、いわゆる終わりなきデスマーチに突入していく事に。
「それは無理だ」に対して、止まらない感覚が不意に、ある。
”普通”は、「縦13行しかない?じゃあテトリスも13行にするしか」になる訳だが、そうならない。この感覚なら同時に4色しか使えないなら、「じゃあ文字に色は付かないね」で苦笑して終わるだけだが。当たり前だ、この結果、このテトリスは劣化で終わってしまう、それでは売れない。
「そこを高解像度モードにして、文字を半分だけ利用出来れば、32×26キャラで画面が描けるだろう?」
だが、この”費用対効果の悪さ”を無視する感覚は、記憶にある面倒さではある。世間の「雰囲気」その物を無理に向けてしまう”それ”は、追い込まれた存在が見せる邪さか、或いはだ。これをクリアする先に、文字の色数の問題が控えていて、そこで「無理」になった時、最初の提案は否定される事になる、が。それを相手は納得しない、自分で「出来る」と言ったから、だろうか。
ともかく”この”オーダー元には、ディレクターの資格はない、訳だけど。
主観で、「統一教会」それは、”これ”に威圧か支配された人々が、信者?となっている…訳だが。それが何時、どういう感じで始まったのか?は解らない。ともかく「アルカディアで売れるゲームを創る事はふいに難しくない」が。「無理な事は無理だ」それは間違いない、このハードには、著しく「出来ない事」があるが。”それ”を要求してくる感覚に、不意に支配されつつ逆らい難い。
それは、「王の権威」という特殊の存在故、だろうか?
ともかく、「統一教会」それは、教義として「アルカディアで売れるゲームを創れない」それがある。”それ”がもし出来るなら、その人は”統一教会の教義その物を否定してる事になる”からだ、昭和天皇は正しかった。ここでゲームを創案できないならディレクター的な事は出来ない、となったら、その人々は失職する事には成る訳だ、そういう苦境、それに有る理不尽?だろうか。
ともかく安倍首相も、最後は射殺されてしまった。その背後には、統一教会が居た。
今、何かの「無理」を否定しないと、自身を破綻させかねない…そんな見えない危機的状況はふいに重い。
何処で「無理」を判断して引き返すか、なぜそれが出来なかったか?「あゝ野麦峠」は今も、何かの愚行としてリアリティだ。
病根自身が、病根を探しているのか?