大いなる疑念の起点ではある。
「黄昏の狩人」その作者は良いのか?
産まれつきと見るか、それとも修練の結果と思うか。
物理的な問題で、当時にしろ「王の権威」それが存在した事が、全ての因果、その帰結には有る。状況の打開の上では、”この”存在を如何に抑え込むか?が課題になった訳だ。その最大のパワーが「独裁創作は利益にしない」だが、”それ”は大いなる失望と共にあって。”それ”をどうやって回避し期待される利益を得るか?そこには重い不可能が有った。
「王の権威」その誕生の経緯を考えると、少しバカバカしい光景かもしれない。
「”これ”を持ってくれる次の人が必要なんだ。ただ自分の子孫に廻せない。だから」
「とは言え」
「主人公をやりたかったんだろう?”英雄”に成れる、それは間違いない」
「じゃあやります」
”これ”に引っかかった奴が、その30年後に微妙な後悔をしているだけではある。その英雄と言うのが仮面ライダー的なそれだったとしても、”その時”は、恐竜は火を噴く物だと思っていた、或いは「そう言う世界」だ。そして、長期連載の英雄と言うのは、何だか理不尽な敵と何時までも何時までも延々と人知れず戦い続ける、そう言うモノだった事は、でも”知っていた”筈だ。
今もそうだ、「次の市長を、何とか君に」今は、誰も引き受けない。無投票での7期目とか、民主主義って何だっけ?が横行してる状況。押し付けておきながら問題が起こったら糾弾される理不尽。平成と言う時代か、昭和のそれか、ともかく無責任こそ最良の選択!と言う風潮が発生してしまった中で、それが結論でどれだけ利益が得られるモノだとしても、「責任を背負う」事に対して、妙な忌避感が発生してしまっていて。その中で「引き受ける個性」は一応、その時は、幾つか有った訳だが。
ただ勿論、その”彼ら”に世界を維持する対処能力があった、訳では無い。
だからこそ、破綻したモノを、平成と言う時代では補正し切れなかった訳だが。
幸か不幸か、当時「ゲームを創る」それは、実は想像以上に高いレベルが求められた、それはある。自分を虐め歪めても、目的を達成するまで諦めないとか、日常を捨てても実現するとか、ともかく最大の障壁は「環境に文句を言わない」とか、その上で打開する事に「楽しい」を見出すとか、そう言う執着が求められて、当時の自分は”それ”が出来た状況はある、何を犠牲にしてたかは考えたくないが。小学生の頃からか、プログラムに触れていた経験があって、その流れの中で”そこ”に求められる「高いレベル」が身について行った…”それ”は或いは、最初から敷かれたルートだったろうか。
良くも悪くも、そこに”特別”は有ったのだが。それは日本と言う特殊な国家故の何かだったかもしれない。
「王の権威」が何故必要か?と言うのは物理的な原因だ。「価値」を考えると、必然として一人、そこに居る。物理とシンクロするのは一人しか居ない、人間には個性が有り、物理法則も一つしかないからだ。そしてだからこそ、”それ”は問題の起点には成り。
…逆に言えば、全ての問題はその一人に集中はしている、訳だ。
その上で、その一人は、「自分を如何に特別扱いしないか?」に、注力せねばならなかったが、”それ”に気づくまでは、むしろ逆だった。
”現実”も、或いは恐る恐る聞く事ではある。
「面白い?」
どうだろう。