男性と女性では、”理解”に差は出る。
最終的に男性は、「白紙」それを前にする。それが”理解”として「個の集合」そう言うモノには成る。小さな分子が寄り集まって、その「白紙」は形成されているのだ。その一つ一つの分子が、それぞれの”異世界”へ通じている、「誰か」でも良い。その白紙の上は常に、何かの波が漂っていて、ペン先は或いは、その上に浮かぶ船か、何かだ。
どうする?
「意味が解りません」
そこにあるのは、「単なる白紙」と言う個でしかない。
結論で、”これ”が女性?の、反応。或いはこのゲーム?は、そんな女性の?を絵にした様な物かもしれない。
「悟りリバーシ」
…男性も時々、そこでズル?は、したりする訳だが。
多く、女性の描く絵が機械的に綺麗?なのは、実際にはこの時「白紙の上に波打つ物が無い」から、だ。天候も何もかも、自身の意向しかそこには無いので、後は?技術の問題でしかない。故に、オーダー的には、その荒れ狂う波間を如何にして対岸まで渡るか?と言う要求でも、その船はモーゼの如く、波を無視して直進したりする。男性は驚愕したりするが?女性には軽い話だ。その時、男性は何かの偉容を、神の力をそこに見たりする。
そこにある現実は、そう言うモノだから、だけど。
近年、ここは少し変わっては来る。「テレビゲームがあるから」だ。文系或いは理系であっても、「無理」そう言うのは、”体感として”解る状況は有り、そう言うのを知っていると、「それはおかしい」そう言う知恵?は、そこに反映する事には成る。その蓄積が、男性の自然な「理解」を超える場合があり、その意味で「萌え絵」そう言うのは、その反映として効果が高い、が。
その要求が、或いは「皇帝の影響の向こう」にあったから、だろうか。それは忌むべき物、反発する物、そう言うモノには成ってしまった経緯は有る。更に、テレビゲームを理解?しない世代、層に対しても、それは要求も理解も求められない現実があり、”そこ”で「それは無理」と結果が出ていても?上の世代は「誰かの描いた絵」を見て、「全然難しくないでしょう?何でやらないの」そう、真顔で聞いたりする。
…その、絵を描いてる「誰か」の絵に、ちょっと問題がある、訳だ。
前出の、「波を無視する小舟」荒れ狂う台風直下の海を奇跡的に渡っていく偉業!”それ”を求める意向が優先されたりする。
…それは、無理だ。
そこを理解してもらうには?その絵の作者に、「それはダメです」それを伝えねばならない、訳だが。
その人物だって、或いは「先生」のコピーが歪んだ結果でしかなく、今も問いは続いてる。
「意味が解りません」
大賀さんが示す現実は、その「無理」を、伝えられるのだろうか?