それは「間違い」だ。
そう考えると、氷河期世代は奈落へ落ちて行った世代、ではある。
「初音ミク」というキャラに関しては、どうも混沌しか感じない訳だがしかし。構成要素その他で考えると、「岡本太郎の嫁」という、その実在しない”誰か”を描写している、感じがまず有る。色使い、良く手にするのがネギ、そして岡本太郎の代表作かにその「ネギ」が題材としてある、そこからの連想。
その時点で、倫理上の問題は抱えている、それが岡本太郎の嫁である事も、実在しないと言う事に関しても、それに対して「居る」と言ってしまうそれも。
”嘘”だ。
今の理解で言えば、そして?「他の類型」を見ても、多くは「嬬魔」”標的”を理想通りに補正する事を目的にした存在、として多くはデザインされているが、初音ミクに関しては”それ”が無い、そもそも標的が存在しない、訳で。
”そこ”にあるのは、要するに何かの”間違い”だ。誤認、曲解、無理解、否定、虚勢、そこにはそう言う物しかない、しかし。
”それ”を、世間全体で愛でよう、そう言うパワーが効いていて。氷河期世代は或いは、そんな世論?に煽られた、そう言う世代だった、かもしれない。
ハーメルンの笛吹きの如く、だ。間違えた人々が「それで良いんですよ」その声に誘われてその後を付いて行く先で、そこに有るのは否定と失望と喪失、そして「氷河期世代」その、一種の蔑称でしかない。
平成に入って、「売春婦」そう言うのを期待し難くなった、現実は多分ある。
その結果、時代が「生贄」を求める時、そこにそう言う奈落が開いてた、それはある。誰でも良いのだ、そこで不足する娼婦の代わりに磨り潰されて行ってくれるのなら。それは求められる人々だ、或いは”自身らが”そうだったように。
ただ、逆説的に言えば?”ここ”には「問題」も累積はしている、訳だ。
”彼ら”は何故失敗したのか?何故、道を戻れないのか、何かの証言の様なモノは累積している、「そう言う視点で見れば」意味は有るだろう、その救済というのは社会的な急務でさえある、しかし。
まず、打開する能力が無いなら、それは単なる、混沌の悪霊である。
そして更に言えば、「岡本太郎の」話、である。
それは、必ずしも氷河期世代、”だけ”の問題じゃないのだ。
世間全般の「間違い」失敗、その象徴の様なモノとして、それはそこに有るのでは。
正確に描写してるとしたら、岡本太郎の、その「要求」も、間違いと言えば間違い、かもしれない。
「嫁とは、単なるお手伝いで良い」それ以上は要求してない。
作品を理解してる必要もないし不満を持ってても気にしない、単にそこに居て、自分の作業の手伝いをしてくれる、それは”そう言う存在”だ、それであればいい。
初音ミクの腕の部分の袖?の様なモノを、最近は「てっこう」として描いてるデザインがあって、多分そうだろう、それへの要求をする時、それは必須な何かではあって。だから逆に、袖の部分を付けていない、そう言うデザインも、少しある。腕の部分のナンバリングも、最近は見かけない事が多い、「”そう言うつもり”は無い」からだろう。何となく、現れていく物ではあって。
色々と、「間違えた」それへ、否定を向ける、それは間違いは、無い。そこに入ろうとするのなら、その否定を受けるから、だ。ただ?「認めていない」のでは、それは間違ったか否かは解らない、その先は奈落でも。
世界その物、平成から続く創作の「間違い」それをほぼ全て集約する、それが「初音ミク」ではあるのだろうか。
これは、嬬魔か、否か。
それはデザイナーの”意識”にしか、答えは無い。
使用イメージ
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