正当性への疑問だ。
「大賀さん」そのゲームで負けた人々が、不同意の不満を滾らせている。
”それ”を表現した創作が、「大賀さん」で否定され、或いは損害が出る。
「大賀さん」それに支配された世界の中で、そんな一部だけが虐げられている訳だ。
それは正義なのか。
もし推測通りなら、現状「バンクシー」それを形成するパワーは、或いは彼ら自身が描いた「チンパンジーの議会」そんな状況にはある。ただただ理解不能な事を喚き合うだけで妥協点が無いまま、時間だけが過ぎていく…小田原評定とは確かそんな。それもこれも、全て「大賀さん」その存在あっての話、だ。彼らは自身の意向に抵抗する”それ”に対して戦いを挑んだ結果、そんな状況に有る。
ラグビーの試合で負けた、負けを認めたら「それは間違ってた」と言う事だ。だから、負けを否定し続ける、「我々は負けていない!」その正当性を論じる場は、現在でも奇妙に紛糾している。「王の権威」それが有る頃は、独裁者の横暴を許すな!だったが。「大賀さん」それは、ラグビーのルールの様なモノでしかなく…その結果に異を唱えるそこには、重い疑念がある。
その帰結とは、果たして。
個人的にも問題だ。「試合結果に文句を言ってどうする」それは、正論と言う観点では一方的な虐殺でさえある。しかし、その結果相手は不利益を被り続ける訳だ、損害が損害を呼んでしまう。一度傾いたパワーバランスはひっくり返る事は無く、ただ、なし崩しに破壊され、悲痛に蹂躙されて行く訳だ。ローカルな視点では、隣に出来た人気店に客が取られて自分の店が衰退していく、そう言う絵ではあり、そこに対して感じる物は、「大衆」その視点でも、キツイ。
とは言え、人気店は別にルールに違反してる訳でもなく、不人気店の商品が負けてないクオリティ、と言う訳でもないのだ。結果は納得し得る物で、第三者的には「さもありなん」それでオチ、だ。
意識の感覚では、その人気店にある。しかし現状は、その不人気店の店員と言う所だ。
維持出来ないカウント数値、継続する意味を問われ続ける毎日、それでも何故続ける?
「カウンタは制御されているから」だ。
或いは”相手”も、それは同じような事を言っている訳で。
自分としてはだから、最早言える事は無いのだけど。
創作者の殆どが実際、意識としてはその「バンクシーの側」に居るのだ。
自分で良いと思って創った物が、その通りに評価されない、換金されない事が不満だ。
その結果、負ける側の彼らは総じて、「大賀さん」を否定する事には成る。
そして負ける側の比率は全く、人知れず消えていくスポーツ選手よりも高い訳だ。
何故、地獄に居るのか、我々は何故。