あげちうのブロマガ

魔王の二択は蜜の味

今もまだ、感覚の根っこに蠢いている。


博打に100万円投入して、大損こいてしまった。何で誰も止めなかったんだよ?
私がこの100万円を手に入れるまで、どれだけ苦労したと思っているんだ?
こつこつと毎日、一万円位の万引きを続けた末に創った大事な金だ…それが一瞬で!
世の中どうなってんだよ、神とやらは何故この理不尽を放置しているんだ。

この博打が成功すりゃ、何も問題は起きなかったんだ!


「ドラゴンクエスト」で、最後に龍王は勇者に聞く。「世界の半分を与えるから仲間に成らないか?」断って倒してグッドエンディング、だが。ただ、実は「独裁創作を利益に変えたい」時、この選択が実は出てくる訳で。

最後に、自分と同じパワーを持った敵が自身の選択の”逆を”主張しているのだ。二択はどう決めるべきか?その時、そこに戦争がある。解釈の仕方ではある、「戦争は避けられない」と見るか、「最後の敵を倒してこそ夢は叶うのだ」と見るか。

…この時、この勇者は何を倒しているのだろう?プレイヤーは善人ばかりじゃないのだ。このゲームは、どっちの味方をしているのか?それは正しい事なのか。

ゲームは、所詮ゲームである。仮想現実、どんな作品だろうと総じて夢オチだ。とは言え、「間違ってる」結果はやっぱり、人気に問題が出る。昭和の頃の名作だ、そこでは多数決の多数派こそを正義にする。その時、人気の外側には不同意が有り、或いは”それ”が不同意に無理矢理同意する時、そこで、何かの変質が起こるのかもしれない。

普通、「ゲームとしては勇者であり魔王を倒さねばならない」が、現実には「その罪を罰しようとする国家権力的なモノから逃げて、根元的な罪の減滅を目指す」そう見えない事も無いのだ、しかも勇者は部屋のモノを勝手に荒らしたりするし。正直、作者である堀井雄二氏だってそんなに褒められた経歴の持ち主と言う訳でもない、その要素が何を意味するか?は結構、アングラ的要素を持っていないとは限らない訳で。

”それ”が許容する中に、そう言う消えない邪が結構、残っているのだろうか。

「独裁性は金にならない」その大前提は、昭和の頃には無かったのだ。平成はその「失われた理想」それを復活させん、そんな戦いだった、と見えない事も無くその時、「王の権威」それは”それ”に「ダメです」許さない邪悪であり、「中華思想の皇帝」それは立ち向かう勇者であった、かもしれない。そして今、中華思想の皇帝は負けた?訳で、物語的には「鉄血のオルフェンズ」あんなオチに終わった、しかし!

…まだ、物語が完全に終わった訳でもないのだ。

「話にならない」勇者が最後、魔王を倒さずしてその意味はあるのか?その主観からしたら現在の結末への流れ?は、到底容認できない。しかし、その「容認できない」人々がしていた事は、軽犯罪を駆使しての利益性とか社会的支配ではあり、失われたか「確信犯」そう言う悪魔の所業ではあって。万引きは容認するべきではない、しかし「たかが万引き」であり、”それ”で殺す所までは出来なかった訳だが。”その”主観ではそれによって育ってしまった悪魔を何とか「軽犯罪の重過失」その定義により倒した?絵ではあっても。

「ドラゴンクエスト」で最後、バッドエンディングしかない?そんな欠陥ゲームを遊ぶ事になった人々の憤怒は、何となくまだ、悪夢として残っている。

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