あげちうのブロマガ

昭和は今もまだそこにある

危機感はある。

「昭和の残骸は片づけろ」

不意に、そんな流れに成っているのと、そこに有ったモノとの衝突、それが始まった?のかもしれない。

利益を発生させる、事を念頭にすると、「独裁性」それは神経質なまでに排除する、と言う方向性が必要になる、が。昭和はその時、昭和天皇の存在がそれに対して異なる返答を見せてしまう訳だ。テレビがそうである様に、適当に、動物園に飼育された動物の様に、利益を彼らに供給すれば良いのでは。もちろんお金を支払う限りは、適当に言う事は聞いてもらうが。

もちろんそれはその後、飼う側にとっては大いなる失望を産む訳だが、ともかく”それ”が当たり前だったのが昭和であり、その為に当時の人々は、何とかして前に出よう、餌を貰う為に拝み倒す熊の如く、そう言う感覚に支配されて。

それは今もまだ、飼う側と飼われる側、そう言う絵としてはある。
結論で「人間を飼ってしまった」事が、そこに排除し得ない邪を創った、そんな感じ。


利益を念頭に、既存のシステムを否定する時、それは「昭和」その時代を結局は破壊し、都合よく改良する、と言う事には成る。この辺は自身にとってもテーマだ、必要であれば、非が無かろうと、やるべき事はある。暴走を始めた”それ”が外因による物だとしても、止めねばならないなら、場合によっては破壊せざるを。

理屈はそうだが、実際にはかなり歪さは出てくる。生贄が当たり前だった時代と、それが否定される今と。さんざん生贄を捧げてきた人々が、自分が最後の生贄に成らんと言う時、それは死力を尽くして抵抗する、そう言う絵だとしても、濃くなった邪は、重い負債と共に、そこで何かの奇異を見せる。

漫画家は、つぶしの効かない商売だと言う。それを辞めさせられる時、そこに有るのは何か?だ。それを前にして、始まる生存戦略が如何に歪だろうと、正義それは何処に有るか。

それでも、システムは態度を変えてない気はする。
利益は昔から、この辺に冷酷な結果は見せている訳だけど。

独裁者さえその気に成ってくれれば、今まで通りは続くのだ、自分の周りだけは。

数千年単位で、”それ”に特化してきた意識…そう言うのも有る。

それでも、犠牲の容認はもう出来ない。

必要が無い。
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