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あげちうのブロマガ

愚者の選択した帰結

現状での「悪」それは、「大賀さんに逆らう事」ではある。

その時、それは何処に現れるか?それは少し面倒さも含んでは来る。

愛知県での中学生刺殺事件、今も明確な動機、そう言うのは不明瞭ではある。刺された側が、ある程度のガキ大将感を出していた、のは間違いなさそうだが、それだけで死傷にまで至るか?には、少し疑問は重い。京都アニメーションでの”それ”にも通じるが、加害者意識の無い加害、と言うのが最近の懸念ではあって。メディアを通じて「こんな奴は居なくなって良い」そう言う報道、作品、その先で、そこに理不尽がある、そう言う場合は、結構。

「パラサイトシングル」が象徴的だが、仕事を持って親と同居してる未婚世代、そう言う「普通」を問題視した頃がある。ヒキニートにしろ、実際にそこには深刻な事情それは有るとしても、そこに有った主観はそれを「いらない」で切り捨ててしまった、結果。

運命はそして、その時、否定された側に神を呼ぶのだ、悪魔かもしれないが。

「平等」平和な社会、それへの実現と言う時、最大の問題がその「主観的な不要」それへの対応、ではある。独裁者が誕生する時、その主観として「いらない」それは、世界からいらない、になり、そしてその「いらない」が無い、と言う事はそれが人間で有る限りは有り得ない。人は流石に排泄物を食事には出来ないのだ。”それ”を求められる時、そこは単なる狂気の領域と化していく。

王を求めない方が良い、のだけど。

王の居る安堵感、と言うのもまた、無視出来ない多数派でもあって。

今でも、”ここ”に書かれた事を「面白い」と思う人々が、多く社会的な排斥を受けている、気はする。カウンタ制御、数値からして否定されていて、世間ではそれを口に出す事さえ憚れる有様、だ、自分でさえ。何かの「良識」は、凶悪に”ここ”を「いらないモノ」にしていて、そして”ここ”に有る物を世間はつまり、使う事は出来ない。これが無ければ世界は破綻するとしても、だ。陥った何かは、愚者のそれではある、ここの感覚。

「機動戦士ガンダム00M」は、或いはそんな中で、不当に排斥された側が世界の支配者になってしまう、そんな風に改変したガンダム、だが。自分はもちろん「面白い」と思って書いたが、表に出てるそれは、ソレスタルビーイングが多勢に屈し続けるそれとして描かれていて。疑問は無視されている、その程度の戦力で、彼らは何故そんな自殺行為に至った?好評だった事にはされているが、真相は、歪んだ歴史の中ではあろうか。

「面白い」は、ある境界線を境に、表裏有る物へと変わる物、と言うべきか。

敵にとって面白いそれは、自身にとっては、敗北に等しいのだ。


人の愚かさは、今も続く?


使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im9664330
https://publicdomainq.net/vilhelm-hammershoi-0056840/

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