感覚的に、自分もブレーキが無い、気はする。
カウンタ数値が出てない、からだ、信用出来ない。
結果、「まだ足りない」それがそこに理由として存在する。
マクロ的な状況は、問題は意外と、無い。全てが「大賀さん」その結果による物だ。個人の思惑はともかく反論は出来る、だから、貴方は今の状況から動く事は出来ない、と言うそれに納得し難い、問題はそれだけであり、そしてその規約を構築したのは”大衆”と言う神を前にした自分ではある。
今の、「売れる」作品に感じる不足感に近く、何だか悠長で、そして欠落感はある。
自分が「面白い」と思う事は、自分の主張それがそこに有る、訳で。それが通っている、感覚こそが作者的な「面白い」訳だが。しかし、大河ドラマ「青天を衝け」は、いよいよと言うか、「人間、渋沢栄一」それの領域には入って来ていて。
このドラマには、オーダーが有ったとは、前に書いたが。”その”意向とは、結果は「かなり違うモノ」には…成りつつある。結論的には、西洋文明の流入が、このまま、その後の破綻へと至るのだ。
結局、渋沢栄一氏は、西洋の”進んだ”文明を取り入れる事で富国強兵を目指した訳だが、その帰結は、「弱者は切り捨てるしかない」そこには有って、そして”それ”を背にしたが故に、彼は結論では”それ”に対抗し切れなかった。本来なら、「西洋文明こそが今日の日本その発展を齎した!」と、描きたい所だが、現状も結果も、実際にはそうなってない、それが事実ではあり。そこに何を見るか?ではある。ともかく現在の出来で言えば、或いは”求めた”「作者からの矜持」人はこうあらねばならない!的な、そう言うのは、消えてる。
あくまでも、視聴者がどう思うか?でしかなく、作者側の主張、それは語れない状況。
「システムとしての理想」が、こういう感じ、ではある。視聴者側の自由意思、それへ関与してはいけない、銃を突きつける様に、「言う事を聞きなさい」それは許されない。その時、「面白い」の感覚は、作者側には無い訳だ、あくまでも、視聴者側の評価でしかない。「人間、渋沢栄一」それが、実際にはこんな人物だった、と言う事で良いのか悪いのか、そこには間違いなく、少なからずの失望、それはある。
でも、それが事実ではあるのだが。
”同じ様な感じ”で、「こうで無ければ!」それは、自分もまた、何かの壁の前に有る。「適当」と言うその範囲を護らんとする事が、継続、”それ”への必需ではあるのだが。それである限り、世間への「影響」それは、有るのか無いのか、解らない。単に、空回りを続けてるだけ、そんな感覚もある、「一文字10円」実際には、その真実とかではあろうか。
「牢陽帝」それに求められるのは、単なる安定した財源、エネルギー、それである。
「これが近代文明?」それには重い疑念があり。
故にか、雨は降り続いている。
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