遊びの形態も、不意に変わってきてしまった、それはちょっと考えたが。
それでも単に、自分がその”現場”に居なくなった、という、その結果でしか無いだろうか。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
昔ながらの、というのはそれほど美味しい話でもない
まず、絵としてはお金持ちの家、その居間。家主らがリビングでくつろぐ前には少し空間があり、そこでは子供らがボードゲームを広げて興じている。家の子も、外の子も楽しそうだ。家主はそれを見て感慨深そうに。
・・・実際にはこんなシチュエーションは有るのか?ではある。子供らは楽しいのか?だ。
「友達の家に遊びに行く」と言う、それは今もあるのだろうか?ちょっと不意に、遠い世界の話だという実感はした。昔は違う、今も、子供らの歓声は時折、家の外では聞こえている。クリスマスの時に見たおもちゃ屋?の広告では、ゲーム関係がかなり端に寄っていて、そしてソフトの種類もあまりなく。その代わりと言うべきか、言えば昔ながらの”それ”がCMされていて、自分が、高校生当たりの頃とは大分変わったというか、「戻った」様な、そんな気分にもなった、のだけど。
「そういうの」を、不意に少し考えた時。そこに微妙に暗黒が有る、様な気にはなった。
「ヘックスウォーリアー」或いは人生ゲームくらいの広さがあるボードを広げて、”そこ”にユニットを置いていくシミュレーションゲーム、である。WIFIかでswitch辺りと繋がり、ボード上にはセンサーがあり、同じくIDタグをつけたユニットを認識するので、面倒なゲーム中のダメージその他は考えなくてもいい、という簡易さが売り、という想定だが。何処をターゲットにする?という時、人生ゲーム的な複数人同時プレイ、そこに闇が少しある。
子供らの間に階層が或いはあって、苦痛を感じている子も居る、感じの。
そもそも、家主の前で彼らは遊べるのか?は…悩む所だ。結局?何かの理想それは、割と表面的な話で内情には淀むモノがある、それが後々のトラウマに成っていく、様な。その辺を避けると、或いは一人用、ネットワーク対戦主体、という事には成るのだけど。その時、先に提案された理想?それは具現化しない、むしろ子供がただテレビの前で一人遊んでいる、そんな否定的な光景に成ってしまう。
ボードゲームを眺め、動かした結果をモニターで確認している、というそれだけでも十分な訳だが。
「面白いか?」と、不意に深刻な否定がそこに見えたりするのは、現場の何かの闇だろうか、或いは。
「遊び」と言う領域の発展こそが、経済の発展に繋がっていく、今の理解ではあるが。「解る」理想がそこに無い、実際の理想はテレビを眺める小部屋の中にしか、というその現実は、果たしてではある。
対戦ゲームのマナーの問題も、実際には強者による理想の押し付けでしかない、という視点が無い事も無い。今の時代、昔ならスルーした話が足元の小石として転がっている、そんな状況だろうか。
娯楽産業、それは難しい業界ではある。