少し状況の混沌はある。
自分が何だか拘る部分こそに、自分を妨げる壁がある、そんな。
「ゲームセンターを維持する方法」それとして、不意に気づく事として、「店主が入荷したゲームの事をどれだけ理解しているか?」そこは、大きい気がする。客はゲームを見て思う訳だ、「面白いのだろうか?」その時、返答が無い、よりも、あった方が良く?そして「それが正しい」少なくとも同意出来る、のなら。それは、その場の先生ではある。投入金額に見合う物は得られるか否か?そう言う「語られない情報」空気感だろうか、それは大きい。
”それ”を形成する上で、店長、その理解はおそらくは大きい訳だが。
…と言う時、しかし。つまり「店主が面白い(ともかく理解出来る)ゲーム以外は入らない」訳だ、そのゲームセンターには。不意に気づく所で、”この”声が大きい時、自分が主張する「独立配信型ゲーム筐体」それは、その場に入れない。この壁が、敵対してなくても「あげちう」その主義主張、”それ”を遮る口実には成ってしまう。
全てのゲームを把握できないし?要らないゲームまで入ってくるから、だ。
ニコニコの「RPGアツマール」がゲーセン筐体に成ってる、その是非ではある。膨大な量、それを店主が全部チェックするなんて不可能だ、だから。このコンセプトは、その既存のゲームセンター運営のコツ?そこには合致しない。客に対しては万人を受け入れる度量こそあっても、製作側はかなり狭い門に晒されてしまい、入れない方が多い。
とは言え、駄作が100本入ったゲーム筐体の意味とは。
既存のゲームセンター、或いはその方法論で運営してる店に、自分の主義主張?それは受け入れ難い物だったりする事に、少し気づいたりはする。”それ”は店主の意向に対して反論してくる訳だ、或いは「そこに」売れるゲームがあったりしたら。もちろん?「店員に、売ってる商品への知識が無い店に行きたいですか?」と言われたら”否”だ。しかしその感覚が、実際に市販されるゲーム、その多さに負けている現実もある。
「クレーンゲームかビンゴゲームみたいなもんです」その筐体その物が、「面白いゲームを探す」一つのゲームとしての筐体だ…そんな言い方は可能だが。
はたして、「かむろぎ」それは有るのか。