要求は、シンプルかもしれない。
客には可能な限り多く来てほしいが、テレビの倫理が適用されるのは嫌だ。
この時、この場にカウンタ制御は肯定され、そして何故か、影響は影響としてそこに。
理由は様々、ある。今の把握で最も大きいだろうそれは、「その場に居るのは罪人だから」だ、過失が判明しても、それを罪には問えないとしても?そこに有るのは、表沙汰に成れば致命的な何か、ではある。経緯の問題で、一般の社会生活が難しくなった心理状態に何故か、「創作」?その領域は、何かの扉を開き続けた、そう言う経緯はある。結果、”彼ら”はその場で少なからず、何かの権利を持ってしまっていて。
そして何故か、「神」は彼らに対して、ある程度の譲歩はしている。
”雅”市場で言うと、「嬬魔」の存在とその影響は無視出来なく、ある。”それ”は、一般的には萌え美少女キャラは、”雅”市場本来のオペレーションを無視し、”適当”にそのロジックを破壊し、その場を「そのキャラには問題ない状態に」維持しようとする。そう言う結果として、マクロ的な倫理としては許されないそれは、見えない、見ない、そう言う感覚かで、混沌のまま無視され、放置される事には成る訳だ。
結果、その場が如何に重要な物に成っていようと、そこの数値は低いまま、という事態へ。
この辺さえ存在しなければ、独裁創作はそれらを無視し大きくは成る、のだが。その時、適用される「マクロな正義」それは、そんな日陰者らの安住の地?を、結局は暴露し断罪し、破壊しようとはしてしまう、それは傾向としては。以前にしろ、”それ”は許されなかった、そして今のシステムも、その辺には留意はある、以前よりはクッションがあるにせよ、否定感は重い。
現状でもまた、「カウンタ制御」それは、そうして肯定され、残っている。
”それ”が有るから現状は続くのか、それとも?それは今も不透明だ。テスト、というニュアンスも有る、”最大の権力者”を敵に回しても、”それ”は正義として不可侵か?だ。いちいち腹立たしい絵ではある、”それ”さえ言う事を聞けば、その先に問題なく進めるのだし、彼らが「上手く行かない」それは自身への過失故だ。邪悪な罪人に何故、何かの譲歩をせねばならない?
そう言う憤慨を前にしても、その場を創ったのは彼らで、それは今も不可侵だ。
「大賀さんの決定には逆らえない」が、”それ”は理由への返答はほぼ、しない。「神様」の分析で判断されるだけで、何故負けたか?その真相は闇の中だ。どっちにしろ許容し得ない憤慨と理不尽を抱えて、その境界線で今日も、何かのストレスは続いている。
前出の、「美味しい所以外は要りません」それは、道理としては問題を抱えている。
”それ”はそのままでいいのか?は、ちょっと判断し難い。
カウンタ制御の是非は、未だに不透明だ。
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