テレビの方から、「商品」として、映像が売られている。
その対価は、「労働」或いは市販品の購入、だ。”それ”が上手く行っている時、経済的な回復はリアリティだ。視聴者に対して、”それ”が求める安心、或いは目標、意欲、そう言う物を提供しているからこそ、彼らは然るべき品を買ってくれる。それが経済を回復させる原動力である、だから。
「只見はいけません」
良くも悪くも、この辺は物理的なロジックとして…ある。”お礼”が必要なら、相手はそれを無視出来ない、だからこそ、普通は「タダで貰う」そう言う事には、抵抗がある訳で。この辺、ニコニコ動画で語るのも問題は、感じる。どんなに良い作品を創ろうと、現実的に儲かるのはニコニコ動画でしかないから、だ。勿論?そう言う訳にも行かない…、視聴者は相応の対価を作者に与える筈だ、とはいえ。
…必要なのは、”お金”である。
ともかく?社会貢献度と言う観点で、ニコニコ動画に集客性のある作品を掲載する、それは…一応は、意味は有る。この場を維持するにも、相応の維持費は必要だから、だ。創作者としても、集客性を持ちつつ作品を発表出来る環境、それは貴重である。「その筈ではある」が。果たして本当にこの場は、維持する必要はあるのだろうか、そもそも「なんで?」理由が無い。創作者のモチベーションを今の状況で期待するのは、まあ無理だろう。
自分的には、「大衆は神である」その主義の提唱者ではあり。その辺の「現実」に対して責任を負っている、そう言うのは、ある。「神様の正体」だ、信仰の結末。「神を信じなさい」その胡散臭さは、神様の、”相手の”正体がハッキリしない事が原因だが。「大衆です」山に登り街を一望する、”それ”が自身の神である、神は実在しているのだ。一応、いろいろあって断言しつつ、自分の今が有る、訳だが。
「今もか?」
それは当然、そうじゃ無ければストリードの連携等々、意味のある作品その他を造る事など出来なかっただろう。金銭的な利益にこそ成っていない?が、アイディアの発案も安全も健康も、それは只では無い、個人的にはそう言う気はしていて。人々に奉仕し貢献する事で、その辺のポイントが、或いは「徳」が上がっていくのであり。それが無いと、「良いアイディア」それは、買う事が出来ない訳だ。思い付かないより、思いつく方がやはり、精神的には安定する。実効性があればなお良い、そしてそれは、更なるアイディアへの足掛かりにも成るのだ。
と言う視点では、心理的には安定はしているのだが、状況は割と窮地、だ。
とにかく自分が自分で創る創作は今、直接的には利益性に結びつかない。道理ではある、そもそも「王の権威だった」と言う裏事情があり?つまり、「何を創ろうが独裁創作の一種になる」と言うちょっと問題ある状況、ではあって。「王の権威が発案するモノしか利益性には繋がらない」のだが。それは他人と比べて著しく平等を害する存在であり?それは「大衆」と言う神の前では問題が有り結果、「適当に」抑制を掛けられた状態が現在。
前に有るのは、既存のシステムが産んだ悪鬼の様な”何か”だ。”それ”に対して、その自作のシステムをぶつけて勝利していかねばならない訳で。しかし「大衆は神様」も、それほど歴史は無く、昭和から続くモノは重く、対価の様なモノにしてはちょっと面倒さのある、それを打開せねば、まあ先も無いと言う時、利益が無くてもせねば成らない、そう言うのは有るかも。カルトに相当するのは山の様に有る訳だ、”それ”が提唱する神全てに勝利か同意を得られねば、この思想?それは正論性を持てない訳だが。
ともかく現状、創作での利益性としては「ストリードの連携」それに対応するのが一番の近道であり、逆に言えば”これしかない”のもどうも、現実の様だ。
これは物理的な話である。信じるか否か、それは関係ない。