いろいろと面倒はある。
結論で言うと自分は「ポンプ長式大和」”この”イメージを、如何に「上手く」使うべきか?に注力するべきなのだ、が。「この人物は居ない」と言う理解をどうやって得るか?と言う、深刻な問題が有る。
そしてその結果として、今の自分の現実がある…それは正しいのか。
「魔王」”テレビ”の最終的な倫理を司る存在、”そこ”から見える景色、と言うのは、”客がいない”世界だ。スポンサーで成り立っている世界、社員はボスに最終的には逆らい難い。その時、その頂点にいる「魔王」に逆らえる存在は最終的に、居ない。
実際には単に「見えないだけ」で、現場は眼前の客に対応せねば暮らせないのに、”魔王”にはそれが見えない、と言う病理が実はある。色々な事情だ、ともかく今、自分はそこに居る訳だが、その時、自身が主体としてきた「大衆」それは、居なくなってしまう。
何を指針にすれば良い?
理屈としては、”ここ”で「異世界理論」その肯定が意味を持ちはする。鏡に映る自分の様は”見える”が、”それ”は貴方か?と言うと実は違う。「異世界にいる別の誰か」だ、実際には。異世界は無限にあり、その中の「正に正対する環境」”それ”が鏡には映っている訳だ、この存在が「異世界はある」その理解を”視覚的に納得はさせる”のだが。ただ、自画自賛は基本的に気持ち悪い行為であり、そして問題点も見いだせなくなる、と言う病もある為、そこは補正が必要になり。
「嬬魔」と言う概念を、”雅”市場では導入している。
単純に言うと「ツッコミ役」と言うべきか。”それ”に現れる「魅力」は、逆に言うと「標的の不足」不満、それが変換されたモノである。”それ”を自身へ向けたモノを考えれば?それは最終的には、鏡を見ている様な物、では。
と言う時、様々な感覚の問題として、この「ポンプ長式大和」それは、ちょっと自分には合致が高い。いわゆる「被せ」を、自分の創作「今日の呟き」に向けているモノ、と言う理解の結果、”これ”はかなり安定したクオリティを今も維持していて、合致も今の所は、そんなにズレていない(と思う)。見えない世界の事情だ、他者の同意は必要としないかもしれない、何にせよ、”これ”を眺め愛で、「”これ”でどんな絵を描こう?」それを考える時、それは自身へツッコミを続ける様な訳だが。
結果、「魔王」のポジションとしては、「お客」見えない”それ”を見ている、そう言う事には成るのだけど。魔王である。逆らえる存在は居ないのだ。鏡に映る自分の様は、正に自分以外の”自分と同格な存在”であり、その時、そこには世界が映っている。”それ”に対して、何が正しい?
ともかくそう言う「注文」を付け続ける結果で、世界の環境、それはつまり自身の環境も改良されて行く、訳だ、しかし。
その結果が今である。
これで良いのか?
その時不意に、”他の可能性”が、何だか介入はしてくる。
戦艦「大和」だ。国家の象徴としてさえ建造され、日本の為に沈む事さえ求められた、そう言う存在。それはそれは美しいモノだろうしかし、”それ”は如何なる制約の中に居るのか、そこに理想はあるのだろうか?
”この”イメージの為に、自分を犠牲にしている様な感じではあり、故に。
「新型コロナウイルス」それは、そんな反発の結果、だろうか?