ともかく概念上、自転車を適当に漕ぐだけで、時給2000円は確約し得る。
電気に支配されたと言って良い時代の、しかしプラスの面ではあろうか。
※「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
「あれ?なんでこんな水っぽいの?」カレーあるある。
良くも悪くも最上位、「長」に成った際にあるそれは最大の懸念、「どうすればお金を用意出来ますか?」には、そうやって発生するお金を集めるしかない、とかは言う。ともかく「お客がお金を持っていない」は、その人力発電所が有る時、存在しなくは成る。現実的に必要か?というとその前に何処かに仕事を探せば、という事には成るのだが。なんにせよ身を削って売る、様な必要は今は、概念上は無い。
…ただまあ、人によっては自転車漕ぐ行為で時給2000円がむしろ苦痛と言う向きもあるだろうか。その場合の”それ”は、良くも悪くも抑止し得る物ではない…もちろんその後のリスクや喪失も自己責任には成るが。高額な給与それには相応の責任が付いて回る。それに対して対処し得るのも、良くも悪くもスキルには成る。
今までプログラムなんかした事の無い奴に、ゲームを作れと言われても、無理は深刻ではあり。
”これ”は、一次的な話かそれとも?ではある。コンピュータに支配された現状、”それ”を加味した感覚で話を作れないと必要な「未来」を語れない、というのは深刻な懸念ではある。物語とコンピューターゲーム、どっち?という選択が過去にあり、形而上はか、「コンピューターゲーム」そっちに主導権が渡っている、が。それでも良くも悪くも?主体は昭和を継続したまま現状ではあり、”長”その領域では今、深刻な異相それは存在する、とは言えるのかも。
命令書通りに、というそこに、しかし自己判断せねば成らない分岐がある、のだ。
柔軟さをもって臨機応変に対応してください、それが実際に真理ではあっても、無責任な要求で有る事もまた現実ではあって。
逆に”その”感覚が、コンピューターゲームには蓄積されていくモノでもあって故に、それに対する対処能力、というのが有るか無いか?は今、深刻な拒否を発生する要素ではある。特に”長”の領域は「創る」所まで感覚を持つ必要は出ている、のかもしれず。テレビ主体の感覚ではそこに対処できない、そう言うのは有るのかも。
全くゲームの実況配信で不意にあるが、「何故そこで自爆する?」物語的なシーケンシャルでは有りえない選択も、「スコアを稼ぐ」際には、有り触れた異常行動ではあって。”それ”で物語的には美を失うとしても、スコアが高い方が上位に成るのだ、その是非についても、世間に説明せねば成らない責任が、その”長”の座には発生する。
今は理不尽な拒絶も、或いは選択も、何らかの理由それはまあ、そこに有ったりする訳だが。
ゲーム制作者にしろ、実際にはもっと予定の立つ作り方をしたい、のだけど。「バグ」と言うイレギュラーはどうしてもそれを妨げる壁ではあって。間違い、それを選択した時点で止まる様な。利益に通じないバグなら放置でも良いが、ゲーム進行が止まる、その後の処理が狂う等のそれは、想定外故にか、深刻な面倒をその現場に齎す訳だ。なのに時間は止まってくれない、納期は設定されている、一日1pという当たり前はそこには無い。
間に合わなかったら?
慣れてない、人の方が今はまだ多い、そんな時代ではある。昔はそもそも必要性さえ無かった理解が、今は確かに少し、必要に成ってきては居る。
のかも。