1958年(昭和33年)12月20日 水原八幡宮の境内に「山口坎山 頌德碑 やまぐちかんざん こうとくひ」の除幕式を挙行。
以下、本(外城物語)・阿賀野市広報の記事から投稿。画像は外城物語と阿賀野市広報から一部お借りしています。ウィキペディアに「山口坎山」が載っておらず、阿賀野市と外城町の皆さんにとって偉人なので、当欄で紹介させて頂きます。
山口坎山は、水原八幡宮の氏子の家(外城地区)の子。江戸末期の和算家。「1789年~1850年(嘉永3年)60歳で亡」 名前は「和(かず)」のほかに、「七右衛門」「倉八」などがあり、後に「坎山」と称した。「坎山」は号とも記されている。 江戸後期の和算家(数学者)
和算は日本で独自に発達した現在の幾何学・三角関数などにあたる。いくつかの流派があり、「関流」算学の人。
若くして志を立てて江戸に出て、関流和算家の直系で同郷の長谷川寛(西磻 せいばん)に学び、高弟になった。 長谷川寛の弟子には、坎山と同輩で浮世絵師として有名な葛飾北斎(1760年~1849年)と交流のあった人物が存在し、北斎もまた関流の和算を学んでいたということです。坎山と北斎を結ぶ資料がないため史実でないけれど、二人の親交の場面など、大いに想像が膨らみます・・と、阿賀野市広報に書かれています。北斎が和算を学んでいたというのは、浮世絵の本には書かれていないと思います。又、坎山はウィキペディアに載っていないので、浮世絵と北斎を研究している人がいても「坎山」という名前を知らなければ史実として表に出てきません。北斎を研究されている人がこのブログを読み、北斎と交流していたという事実に気づき公表して頂ければ嬉しいのですが。期待します。 ※葛飾北斎は、山口坎山より29歳年上。葛飾北斎は「冨嶽三十六景」のような旅シリーズの木版画を発表(1830年頃、安藤広重や葛飾北斎が活躍。山口坎山が40歳の頃)。山口坎山は6回にわたり青森県津軽から九州まで和算を地方の人に教えるために旅し、その道中を日記「道中日記」に書き、文章のほかにその地方の風景画も挿絵に描いています。この「旅」関係で山口坎山と葛飾北斎は交流があった可能性があります。
和算は、日本古来の数学算術で、江戸時代に発達。旅鎖国政策の中で西洋数学の代数・幾何・三角関数に匹敵する高等数学であり、宝永5年(1708年)没とされる関孝和(せきたかかず)が、我が国における和算の創立者であるといわれている。 方程式論円周率・曲線図解の面積、曲面に囲まれた立体のパズルのような問題の解答を競い合うもので、大名から一般民衆まで広く親しまれた。(私の一番嫌いな勉強です。江戸後期の人たちが好んで勉強していたのが驚きです)
上の画像は、一番上の写真の碑の裏面の文。文は、当時(1958年)の新潟県文化財保護審議会委員の宮栄二氏が撰文(せんぶん。碑文などの文書を作ること)した。碑の表面の書は、鶴巻悌二(鶴巻松蔭・現在の新潟市北区出身の書家)氏の筆。
坎山は、江戸で17年間修行し、文化・文政年間(1804~1830年)の町人文化が開花したころ6回にわたり、北は津軽、南は九州まで旅をした。門人の指導と合わせて、各地の史跡・風物・人情を観察・記録し、日記を書いた「上の写真・山口坎山道中日記」
この道中日記(文化14年・1817年4月に起筆)は、和算研究や歴史・民俗資料として貴重なもので、昭和40年(1965年) 水原町の文化財に指定され、200年近くたった現在でも、各地から学者が研究の為に来訪している。
左上「道中日記の表紙 文化14年(1817年)27歳の時」 右上「水原八幡宮にある算額の一部」
算額の一部を拡大
算額奉納の習慣は、江戸中期に入ると全国的に盛行した。
ウィキペディアによると、算額(さんがく)とは額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。平面図形に関する問題の算額が多い。数学者のみならず、一般の数学愛好者も数多く奉納している。 算額は数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して奉納されたとしている。やがて、人の集まる神社仏閣を数学の発表の場として、難問や問題だけを書いて回答をつけずに奉納をする者も現れ、その問題を見て算額にしてまた奉納するといったことも行われた。算額奉納は世界に例を見ず、日本独自の文化である。 算額に記された問は、ほとんどがユークリッド幾何学に関する図形問題であり、同時期の西洋にも劣らない問も残っている。
笹神村郷土研究 第7集によると、和算の「算額」が水原八幡宮に保存されているそうです。算額は嘉永3年(1850年)に奉納。奉納者は熊倉美雅。同人の師匠は関流の山口坎山。算額の大きさは77×270cm。坎山の門人額。本掲載の昭和52年(1977年)当時で、算額の文字は「不鮮明」と記されています。 奉納した1850年は山口坎山が死亡した年。死亡する前に奉納したのか、死亡したから門人が奉納したのか? 1868年、江戸時代から明治時代になりました。
(上)山口坎山道中日記の一部。 下図は(上)の部分拡大図。
平成10年(1998年) 新潟県では、これまで育んできたふるさとの「宝もの」に新たな価値を付け加えていく「新・新潟価値づくり」を提唱。旧水原町は、江戸時代に活躍した和算家・山口坎山の道中日記が文化財であったことから、之を生かしたまちづくりを目指した。平成12年(2000年)、水原本町商店街に算数の問題を設置し、商店街を訪れる人に問題を解いて楽しんでもらうという事業を実施した。現在も設置する問題が定期的に入れ替えられ、小学校低学年から一般の人まで楽しむことができる。 少々残念なのは、何故 商店街に算数の問題が設置されているのか? 山口坎山って誰? 坎山頌德碑が水原八幡宮の境内にあることを知らない人が多いこと。「宣伝」は難しいですね。
(上)水原商店街に設置されている算数の問題と写真。
2020年11月17日追記 あがの新報(2016年2月14日号)に山口坎山の記事が載っていました。
記事の内容は、山口坎山は晩年、生まれ故郷の水原に帰り、近郷の若者達に和算を教えた。その際、坎山が用いた算題(問題や解き方など)約100題を弟子の田中慎平(新津市・元庄屋)が、天保14年(1843年)に書き写し、「算法席書」(縦18cm×横10㎝ 85頁)の表題で1冊にまとめたものが見つかった。同様の指南書は他に見つかっていない。※山口坎山が亡くなったのは1850年。この算法席書は坎山が亡くなる7年前のもの。つまり、坎山は亡くなる7年前には(53歳の時)水原に帰ってきていたんですね。
山口坎山が書いた「道中日記」は、昭和40年(1965年)に旧水原町の文化財に指定されている。この日記にある300余もの算題などは、全国各地の算学者が考えたものだけで、山口坎山自身の算題はひとつもない。その点では「算法席書」の表紙に「山口和先生指南、田中慎平」と書かれているので、坎山自身が直接弟子に教えた際の貴重な資料と裏付けられる・・とあります。その新聞には2枚の写真が載っています。 一部分を拡大して投稿。詳しく知りたい方は前記新聞をごらんください。新聞の文章を一部使用させて頂きました。
← 表紙 ← 算題の一部
2023年10月3日追記 → 今日、坎山の生まれた日を特定できる根拠となる資料を教えて欲しい、とコメントを頂きました。このブログの4行目の記載が正確でないための質問と考えます。阿賀野市の「広報あがの 平成27年9月号の26ページ」に、山口和は寛政年間(1789~1801年)に生まれ‥とあります。60歳で亡と記載していますが、前記の広報誌には「60歳亡」の記載はありません。3年前の投稿なので正確な記憶がないのですが、いくつかの資料を合わせて記載・投稿しました。困るのは「葛飾北斎と会っていたかも」と書かれた「広報あがの」のページが見つかりません。このページを読んで葛飾北斎の話を書いたのですが、どこに片づけたか。私は山口坎山の研究家でなく、見つけた資料で阿賀野市の情報を投稿しています。1年半前から山積みの資料をファイルに移動し整理保管しているのですが、この資料が見つかりません。捨ててはいないはずですが。阿賀野市の広報控を阿賀野市図書館で調べれば見つかるかもしれません。阿賀野市歴史民俗資料館の「ふるさと阿賀野の人物群像」の紹介では、山口坎山は1800年生~1850年没とあります。亡くなった1850年から60歳を引いて1800年としたと思います。しかし、「水原郷土資料 第32集 平成16年3月20日 水原町教育委員会発行」では、「生年は詳でないが死去の年は確認できる」とあり「歿年は嘉永3年であることがわかるが、年齢と没地は不明である」とあります。いろいろな情報がありますが、おおよそ1800年前後の生まれ・・かもしれません。詳しくは阿賀野市教育委員会に問い合わせてください。※平成12年12月23日付の新潟日報では、寛政12年(1800年)の生まれとあります。興味深いのは、前記32集の19~20ページに、坎山の生家や家族の事など、いくつかの考察が載っています。機会があればお読みください。
下記は阿賀野市図書館に所蔵されている「山口坎山」の本。 (下)「和算家・山口和の道中日記」 1993年
(下)「山口坎山・道中日記の算題」 2000年
2024年6月26日追記 → 「あがの新報 2016年2月14日発行」の記事を紹介。※あがの新報は、現在 廃刊されました。
参考・ 天保14年(1843年) 昭和40年(1965年)