原久一郎(明治23年 1890年4月生)は、旧水原町下条(松居町)の法衣屋(ころもや)の一人息子として生まれ、幼時はわんぱく少年だった。兵隊ごっこをして遊んだが、力が強くて弱い子はとてもかなわなかった。負けた子は、近くにある原家の墓地がある善照寺の墓地に押しかけ、原家の墓に向かって盛んに石をぶつけた為、墓の文字がかけているところがある。
久一郎は水原を愛し、何度か墓参のため帰省した。 昭和37年(1962)夏、奈都子夫人、令息卓也夫婦と共に帰省した時、公民館主催で8月21日夜に町役場の2階で父子二人の講演会を開催。久一郎は「ロシア文学は、極端から極端である・・・」と話された。
早稲田大学を卒業し、大正9年 早大露文科の創設により講師に迎えられた。大正13年~昭和15年にかけて大トルストイ全集全22巻を完成した。
原久一郎は、ロシア文学紹介の業績に対して勲三等瑞宝章をうけ、さらにソ連邦最高会議から名誉勲章、モスクワ大学から名誉博士号を贈られた。
久一郎の遺品が令息卓也氏から町に寄贈されました。・・・本「水原の歴史風土」から省略し転載しました。 とりあえず原久一郎の件は、今回で投稿終了します。新しい資料が見つかったら再投稿します。 管理人