昔の岩波全書のブックデザインは格調が高かった.この本は今でも目録にあるけれど,装丁は安っぽくなってしまった.
ヒトが装丁,いや「想定外」というときは,意識してか無意識にか知らないが,確率の計算をしている.原発を襲う津波の高さを想定する会議では,出席者たちの定年以前に来そうも無い津波は想定外だ.
来たら,運が悪かったのだ.
原発再開の論議でもこの計算がまかり通っている.
でも,怖いのは,地震学者さん達が,日本付近の地下の構造が予想がつかない,すなわち 確率計算が出来ない状況へと変化していると感じているらしいこと.こうなると,いままでの確率計算はちゃらである.
もっと肝心なことは確率の計算の非人間的なこと.確率が 1 年間で 1 万人にひとりというとき,自分がそのひとりになることは「想定外」である.
その「ひとり」になったらおおごとだが,それは個人的な問題であり,政策とは,確率という名の科学の名を借りて,個人を切り捨てるもの らしい.
原発事故と交通事故を同列に扱うことはできない.事故確率とはポイント予測であり,時間的空間的影響は論の外である.放射性同位元素の半減期・飛散範囲などを評価関数に入れて計算したら,原発なんか作れなかったはず.
原発は未熟なまま (もしかしたら 永遠に未熟?) 実用化されてしまった不幸な技術だ.50 年前ならともかく,いまだに電力会社が慣性で核エネルギーにしがみつくのには,科学者技術者の怠慢にも一因がある.
原発をやめても,廃炉までの道のりは長く厳しく,やることは沢山ある.原子力ムラの皆さんが失業することはありそうもない.
学科・研究科に原子力と名が付くと,学生が集まらないなら,放射線環境研究科とか改称したらどうだろう.