─光る波の間─

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鬼子母神に母性を思う

2005-08-29 15:34:37 | つれづれ
山岸凉子さんのマンガに鬼子母神をテーマに描かれたものがある。
単身赴任で愛人作って家での存在感のない父親と、
教育熱心な母親と、その母親の期待を一身に背負った兄と、不出来な妹。
物語はその不出来な妹の視点から語られる。
兄は進学校に入学するもついていけなくなり、不登校になり、父親に暴力を振るい、
酒びたりになるが、母親には「大検を受けるよ」などと“王子様”でい続けようと必死であり、
それを見ている妹の目には、ときおり母親の頭の後ろ側に恐ろしい面のような
もう1つの顔がくるりっと現れるのを目撃する。

鬼子母神のお話そのものは、
自分に何百人もの子どもがいるが、彼女は他人の子どもを食べて生きていた。
ある日お釈迦様は彼女の末の子を隠してしまう。
狂ったように子どもを捜し求め、嘆く鬼子母神に、
「何百人もの子を持つお前でさえ、1人失っただけでそれほど悲しいのなら、
 たった一人の子を失った母親の悲しみはいかばかりか」と言うと、
鬼子母神は自分の行いに気づき、その後心を正しくしたという有名なお話。
ちなみに彼女の手に戻された末の子は、死んでいた。

このお話をぱっと読むと、「え?お釈迦様が子どもを殺しちゃったの?」と
思ってしまいそうだ。
でもよく見ると、食べた他人の子も何百人もの自分の子も、
死んでしまった末の子も、実は同じ1人の子どものことなんじゃないか?と思えるのだ。
殺したのはお釈迦様ではなく、鬼子母神自身。
鬼子母神は母性そのものの象徴だと思えば合点がいくのだけど、どうでしょう?

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