猫に餌をやる
外猫に餌をやる
外がつくと
とたんに意味が変わる
ざわざわする
外の猫
つまり
野良猫に餌をやるということは長いこと「悪いこと」であった。
野良猫を増やすことは、悪いこと
なのであった。
外で、猫を 飢えさせることが 長いこと「良いこと」だった
外で、猫が 野垂れ死させることが 長いこと
私もそう信じていた。
庭に来る猫を、苦々しくみていた
だれかが 無責任に餌をやるから 猫が増えて
家の庭を荒らす
猫が来ることを不吉の現れのようにみていた。
猫を追い払うために、猫撃退の超音波装置を購入しようとした。
猫を音でおどかすために、ブラインドを開け閉めして壊したりした。
それが、
猫に餌をやる
外猫に餌をやる
この変化は、おもしろいなと思う
もともと、どうして人々は、猫に餌をやりたがり
猫に寝床をとられ 猫に家を荒らされ、猫にお金がかかるのに
なぜ、猫と暮らそうとするのか、
その謎を解き明かしたい
という動機から
「ネコのヒトビト」という題名をつけた
いまだ、答えに たどり着いてはいない。
自分が、どうして猫と暮らしたいのか
どうして外猫にまで餌をやることになって
外猫の寝床のことまで心配するようになるのか
猫は長いこと他人事だった。
猫が、他人事ではなくなり
自分ごとになったとき
猫の寝床を心配するようになる。
アフリカのことは、他人事だけれど
ひとたび アフリカの人と知り合いになれば
自分ごとに近づいていくかもしれない。
たとえばウクライナの人が日本にきて
戦争の話をすれば、ウクライナの人のことが自分ごとのように思えるように。
物事は、心が乗っている
心が乗ると、それは自分ごとになっていく。
物質的な境界を、距離的な問題をやすやすと超えて
自分ごとになっていく。
だれかが、こういった だれかが これが正しいといった
という段階から
自分の目でみて、自分の心で感じて、
心を寄せてみるとき
見る目が変わり、自分だけの考えが生まれてくる
だれかが言った
あるいは
多くの人がいう「正しい」とかが
自分が接してみることで
自分が実行してみることで
見方が変わる
なにごとも当事者になってみなければ わからない
だれにもわからない事実がある
それに気づく時
自分の独自の見方があることを、
否定せず
見つめて受け入れた時
あたらしい世界が見えてくるのかもしれない。