竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

淡々とした辞世の歌

2009-12-09 09:01:06 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・万葉集耕読
 淡々とした辞世の歌      (37)

有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸(さき)くあらば また帰り見む  
ああ、私は今、岩代の浜松の枝を結んで行く、もし万一願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。

家なれば 笥(け)に盛る飯を 草枕   旅にしあれば 椎の葉に盛る  (巻二)
 家にいたなら立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、いま旅の身である私は椎の葉に盛る

 有間皇子は、孝徳天皇(元号を大化と改め難波宮で即位したものの、中大兄皇子らの冷酷な待遇を受け、悶死した)の唯一の子。十九歳の時、策略と知らず蘇我赤兄に誘われ謀反の謀議に加わり捕らえられて、斉明女帝に供奉していた中大兄の訊問を受けるため、白浜温泉に護送された。この二首の歌は、その途上で詠んだものである。
 訊問の庭で、有間皇子は、「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず。」と答えるだけで黙したという。その帰路、再び岩代を通って藤白坂まで来たところで、皇子は絞殺された。「従容と死につこうとする潔さが十九歳のプリンスの体にあふれている。だから松を結んで無事を祈ることにわざとらしさもない。一首に流れている淡々とした調べは、意志の透明さによるものである。この若者の心をよぎるたった一つの翳りがあった。妻への愛である。(後の歌は)家で妻が食器に盛ってくれることを回想したものである。」(中西進)

 さきに「士の本懐」で記述したように、人は、臨死という極限の状況に身を置いた時、何を考え、何を言い遺すか。太宰治の未完の小説「グッドバイ」やゲーテがいまわの際に発したという「もっと光を」などという言葉を仰々しく取り上げるのは、後人の下世話な関心からである。
有間皇子の歌には、無念さが少しも滲んでいない、淡々として天命に従おうという潔さがある。それがかえって後生の人に、古代政治の非情と暗闇を感性的に認識させる。岩代の結び松を通して、有間皇子を哀悼する歌は、万葉集に多数収められている。