竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

漂白の旅(西行二)

2010-12-29 08:29:25 | 日記
日本人のこころの歌―私家版・新古今集耕読(10)
 漂泊の旅(西行二)

  伊勢にまかりける時よめる    西行法師
鈴鹿山 憂き世をよそに ふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ
 憂き世を関わりのないものとして振り捨て、鈴鹿山を越えてゆくこの身は、これからいったいどうなっていくのであろうか。

出家遁世の境涯になった西行は、漂泊の思いを留めがたく、繰り返し孤独な旅に赴いている。この歌は、出家後数年を経て、都から鈴鹿山(三重県)を越え伊勢に出かける時に詠んだ歌である。初めての長途の旅で味わう孤独感・不安感とともに未知の世界に踏み込む興奮が伺える。さまざまな煩悩に苛まれるだけで、生の実感のない日常性を離れて、未知の地に踏み込む長旅に出ることにより激しく揺れ動く情念の昂揚は、死との瀬戸際に身を置く中でこそ味わえるものであろう。
かくして、西行は生涯を賭けて度重なる孤独な旅を続けることになる。二十代と六十代の終わりに二度も「小夜の中山」(静岡県)を越えて赴いた陸奥の旅は、自身の父祖の地によせる親近感とともに、平安期の歌人・業平や能因にゆかりのある「歌枕」に惹かれる思いもあったのであろう。この他、西国の安芸、四国、信濃路、北陸路にも足をのばしている。しばしば熊野詣でをしているのは、修験道の修学者として、その道心を深めるためであろう。

西行の出家遁世は、単に隠遁して俗世間との関係を絶って、蟄居することではない。ダイナミックに未知の世界に踏み込んでいく孤独な漂泊の旅を続けるなかで、自分の真実の生と向き合い、自分を鍛え深めるとともに、生来持ち合わせていた詩心をさらに豊かに磨くことにもなった。