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三本脚で立つ~思考の経路

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BABYMETAL探究(『メタル・エヴォリューション』02)

2015-03-06 22:25:24 | babymetal
『メタル・エヴォリューション』の第2話のテーマは、「アメリカン・メタルがどのように生まれたのか?」についてであった。

アメリカン・メタル(ブラック・サバスやジューダス・プリーストのようなブリテン発祥ではない、アメリカ発のヘヴィ・メタル)などとBABYMETALとは、無関係にも思えるが、アメリカにおいてももちろんさまざまなポピュラー音楽はずーっとあり続けてきたわけで、その中で、どのような性質をもった音楽が「これはヘヴィ・メタルだ」と見なされるのか、ということは、BABYMETALがヘヴィ・メタルであること、の核心にも関わっているのだなあ、と、視聴した後では思うようになった。

つまり、ヘヴィ・メタルのいわば「必要条件」とは何か?について改めて考えさせられたのである。

ステッペン・ウルフのあの「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」の中に、「ヘヴィ・メタル」という歌詞が初めて使われた(「ヘヴィ・メタル・サンダー」という詞だったようだ)、という「へ~!」ネタもあったが(ご存じでしたか?)、それよりも、この番組の冒頭でアメリカン・メタルのルーツとしてサム・ダンが訪ねたのが、サーフ・ミュージックであった、ということには驚いた。

なぜ、サーフ・ミュージックがヘヴィ・メタルのルーツなのか?

番組で紹介されていたのはディック・デイルの弾く、リフの激しさである。映画『パルプ・フィクション』でもお馴染みのああしたサウンドについて、ディック・デイル自身が
「激しさ(LOUD)」を強調していた。

(へヴィ・メタルの父と呼ばれましたね?と問われて)
ディック・デイル
「評論家は、俺の音楽を、まるで2つの列車が突っ走ってきてぶつかり合う時の音みたいだというのさ。
自分のことをギタリストだと思わない。オーギュメント・ナインスやサーティーンなんて何だか知らないし、そんなのどうでもいい。痛めつけるようにして弾いた結果自然に音が生まれたんだ。」



ここは極めて興味深いポイントだ。
すでにできあがった「ヘヴィ・メタルの典型」を基準にすれば、BABYMETALはヘヴィ・メタルではないのかもしれないが、そもそもヘヴィ・メタルのルーツにまで立ち返り、その根源的なモチーフ(のひとつ)を探れば、「激しさ(LOUD)」がヘヴィ・メタルの核心(のひとつ)である、ということ。
必ずしもギターの演奏らしい演奏ではなく、「痛めつけるようにして弾いた」サウンドがヘヴィ・メタルの核(のひとつ)だということ。
『M・E』第1回にもマーシャルの話が出て来たが、今回のこのディック・デイルの話はフェンダーの話へとつながる。それらは、単なる付加的な装置なのではなく、「大きな音(LOUD)」というヘヴィ・メタルの本質に関わるのだ。

BABYMETALのライヴでの「爆音」(僕は残念ながらまだ未体験だ。祈・幕張・当選!)は、単なる「量」ではなく、それがヘヴィ・メタルだという「質」に関わるのである。(もちろん「必要条件」であるだけで「十分条件」ではないが)。

「ヘヴィ・メタルの典型」のみを盲信・信奉する人(そんな人いるのかな?いるなあ…)からすれば、サーフ・ミュージックなどヘヴィ・メタルではない、ということになるのだろうが、しかし、その「ヘヴィ・メタルの典型」はその信奉者が否定するサーフミュージックから(も)生まれたものだ、というねじれは、何だかとても可笑しい。

また、番組内で、やはり、アメリカン・メタルの前史として紹介されている、例えばブルー・チアーなどの楽曲・演奏の特徴として、

aダウン・チューニング
b音量
c激情
d反抗のしるし

などが挙げられている。

bは上に書いたことと重なるし、
aは、この前史よりも、『M・E』の後の回に出てくる、ヘヴィ・メタルの進化のひとつの顕著な発現形態と捉えるべきなので後の回にまわしたいが、
cやdも、BABYMETALを僕たちがヘヴィ・メタルとして(目に涙を滲ませながら)楽しむ重要な本質だ、と僕は考える。

cは、YUI・MOAの「振り」とも関わる(例えば、今考察中の『イジメ、ダメ、ゼッタイ』のいわゆる「駄々っ子ヘドバン」とは、まさにこの「激情」の「演」奏だろう)から、ここでは詳述しないが、dについてここで少し詳しく考えてみたい。

もちろん、ヘヴィ・メタルだけではなく、ロックの基本的な姿勢が「反抗」であるだろう。が、そのなかでもとりわけ、ヘヴィ・メタルは、その「反抗」を鋭く・激しく表現・享受する音楽だ。

ところが、この表現・享受の仕方が、世界じゅうのメタル・ヘッズのなかでも日本人は特殊であるらしい。らしいと付け加えるのは、当事者である僕(たち)にはそのへんは気がつきにくいからだ。この「日本人のヘヴィ・メタルの表現・享受の仕方の特殊性」については、サム・ダンの前二作、とりわけ、2作目の『グローバル・メタル』で描かれていた。その特典映像の伊藤政則氏との鼎談でも、話題の中心がまさにここにあった。BABYMETALとはそのような特殊な日本でしか生まれえない形態だったのだなあ、と、『M・E』の後で前二作まで遡って視聴して感じたのだが、ここはとてもとても重要なテーマなので、また後日考えることにしたい。(ずいぶん宿題が山積してきたなあ…。まあ、BABYMETALを考える・語る愉しみ、です。)

今ここで僕が考えたいのは、もちろん、BABYMETALにおける「メタル・レジスタンス」という設定についてである。

この「メタル・レジスタンス」という設定を精神的な支柱として三姫が「演」奏する、そこに、僕(たち)はヘヴィ・メタルの精神、いわば「メタル魂」を感じているのではないか。

例えば、乃木坂46に「コウモリよ」という楽曲がある。聴いてみて、率直にカッコよい曲だと思った。しかし、この曲には、僕は「メタル魂」は感じない。メタル風のカッコよいアイドルソングだ。貶しているのではなく、BABYMETALの楽曲とは決定的にありようが異なる、と言っているのである。

その差、は、「レジスタンス」の有・無だ。

これは直感だが、BABYMETALの曲は、アンセムである『イジメ、ダメ、ゼッタイ』『Road of Resistance』は言うまでもなく、公式リリースされている曲すべてが、この「レジスタンス」=「メタル魂」の表現になっている。ストレートなものも、屈折したものも、反転したものもあるが、さまざまな「レジスタンス」を歌や「振り」で表出したものが、BABYMETALの楽曲だ。『おねだり大作戦』や『4の歌』なんて、この「メタル魂」の異形の権化だ。(逆に、「レジスタンス」でない、つまり「メタル魂」のない曲は、「公式」化はされない、のではないか、と思う)。


『グローバル・メタル』を観て実感したのだが、僕たちには、イスラエルや中国やインドのメタル・ヘッズのように社会体制のなかでの「レジスタンス」の表現としてヘヴィ・メタルを捉えることはできない(これが前述した日本のヘヴィ・メタルの特殊性だが、後日詳考する)。ましてやアイドル畑から生まれたBABYMETALが、ヘヴィ・メタルたるためには、「メタル・レジスタンス」という設定が精神的支柱、「魂」として(あるいは「構造」として)必要だった。そして、毎回毎回のステージで見せる、彼女たちの「演」奏は「レジスタンス」の表現、「闘い」である。いわば「命を賭けて闘い」ながら彼女たちは歌い踊る。「レジスタンス」には、闘う相手が前提として必要である。それが、アイドル界であったり、アンチメタラーであったり、観客だったり、あるいは、自分たちだったり、自分だったり、とりまく状況だったり。

「メタル・レジスタンス」なんて設定がなくっても、SU-・YUI・MOAの三姫は、真摯に・必死に、歌に踊りに取り組むはずだが、そうした彼女たちのひたむきさを、「レジスタンス」という構造として位置づけ・変換することによって、彼女たちのパフォーマンスはヘヴィ・メタルの「演」奏となりえているのだ。

(そう、だから、神バンドをバックに、さくら学院がキレのよいダンス・熱唱を聞かせても、それはヘヴィ・メタルではない。たとえ、中元すず香が歌っても、だ。たとえ、一昨年度のさくら学院から、中元すず香、水野由結、菊地最愛の三人だけを選んで、神バンドをバックに、BABYMETALの曲をカバーさせたとしても、それは、先の「コウモリよ」と同次元のパフォーマンスであり、ヘヴィ・メタルではない。繰り返すが、優劣の評価ではない。「性質」「構造」「本質」の違いとして、そうなる、という話である。たいへん微妙だが、決定的に重要なポイントだと僕は思う)。

2014年のワールド・ツアー、とりわけソニスフェアでのパフォーマンスが感動的なのは、彼女たちが「闘っている」姿を見せてくれているからだ。「メタル・レジスタンス」の実行である。事実、「レジスタンス」を行ったのだ。という意味で、「本物のメタルを見せた」のだ。
(カットされていなければもうすぐ視聴できる「新春キツネ祭」の冒頭のフィルムでこのへんがどのようにまとめられていたのか、しっかり確認したい。)

僕は、例えば、マイケル・シェンカーが心身ボロボロの状態から「神」というアルバムをひっさげて帰ってきた時の凄みのような、僕にとってのメタルの原体験、「メタル魂」を、彼女たちのパフォーマンスに感じている。たぶん、その触感のようなものが、BABYMETALはヘヴィ・メタルだという、何の曇りもない確信・信頼・満足感につながっているのだと思う。
2015年度の、ワールドツアーの「過酷な」日程にも、それを感じる。彼女たちは(三姫が自覚しているかどうかは別にして)「闘っている」。そうした精神的なアティテュードこそ、BABYMETALがヘヴィ・メタルであるひとつの極めて本質的な核なのだ、ということを、『M・E』の第2回を観て、再認識したのであった。

そして、この回は、ヴァン・ヘイレンの登場で閉じられる。
「ナザレスやスティクスではなく、ヴァン・ヘイレンさ…狂騒的なフィーリングを取り戻してくれた。」と語られていた。
そう、ヘヴィ・メタルの「狂騒的なフィーリング」の、最新形態が、BABYMETALなのだ。「レジスタンス」を、「狂騒的なフィーリング」を感じさせる唯一無二のかたちで表現する。BABYMETALのヘヴィ・メタルとしての本質はそこにある。

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