「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。  戦国の乱世、紀州、和泉、河内の国々は国主・頭目等の治安維持を守り切れず、三好一族や松永久秀などの戦国

2019-11-30 05:01:16 | 温故知新
『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。
 戦国の乱世、紀州、和泉、河内の国々は国主・頭目等の治安維持を守り切れず、三好一族や松永久秀などの戦国大名の台頭によって紀州などの僻地に追いやられ、宗教集団の根来衆や寺社勢力の総国が勢力が台頭し、紀伊半島に雑賀衆や泉南地域の一向宗や紀州半島の奥地の熊野などに独自の集団を作りあげた。また湯河一族なども独自の自治国を作りあげた。
 信長と秀吉は三好一族などの一掃したあと紀州征伐に取り掛かったが、信長は本能寺で横死、秀吉が紀州征伐に根来寺、粉河寺、高野山など雑賀衆・根来衆の鉄砲に武装化した集団で天下統一の目前に向かって来た。根来寺、粉河寺は秀吉軍の18000人兵士に大炎上し灰塵と化した。 高野山は攻撃前に降伏し、武装解除し秀吉軍に帰順の意を表し高野山の焼討は免れた。
 岸和田城を中心に戦いが繰り広げられ大坂襲撃、和泉の戦、千石堀攻撃は大規模で熾烈を極めた。太田城の水攻めは長時間んを要し秀吉軍10万の兵力を持って陥落させた。その後は紀伊半島の奥地の紀伊国一揆など地侍反乱で鎮圧で南紀攻略を持って紀州征伐に収束を見た。
「保科氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
中世から近世の武家。平安末期に信濃国高井郡保科に発祥。養和元年(1181)横田河原の合戦で、保科権八が越後平氏方に、保科太郎が源義仲方に属した。その後、御家人になり、承久の乱に活躍した。中先代の乱では北条時行方の大将として船山守護所を攻撃した。室町時代には高井郡河田に保科長光・長経・信光、伊那郡藤沢に高遠諏訪継宗の代官として保科家親・貞親らが活躍。高遠諏訪氏が武田信玄に滅ぼされると、武田家臣だった保科正俊・正直らが台頭、徳川家康の下で大名化し、下総多古に移った。正光の代に高遠藩主となり将軍秀忠の子幸松を養育した。正之は出羽20万石から会津藩主となり、正直の三男正貞は上総飯野藩主になった。京都守護職就任し保科氏から「松平容〇」の改姓をするが、自身は保科氏として振る舞い、幕政の要職を求められる大名に変化していった。その見返りに優遇されたが、幕末には長州征伐に動員される。




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