「最上氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALER電書籍
出羽国の武家。延文元年(1356)羽州管領(のちの羽州探題)として最上郡山郡山形城に入部した斯波兼頼(1316~1379)を始祖とする。兼頼は奥州管領斯波家兼の次男。兄の斯波直持が奥州管領を継ぎ、ともに足利一門三職斯波家の一族として奥羽に勢力を固めた。分郡の最上・村上2郡に依拠し最上氏を称したのは、15世紀初期・欧州探題シナ氏が大崎氏を名乗った頃で、直家・満直父子の代とみられる。
天童、中野、高擶などの2郡内の郷を名字とする多くの庶家分出し、特に最上氏に養子を二度も送り込んだ中野氏と天童氏は重鎮的位置を占めた。
義定・善守の頃、戦国大名として勢力を強め、最上義光の代に最高期を迎え、豊臣期・徳川初期にも巧みな外交・内政で危機を切り抜けて、庄内まで領地を確保した。しかし元和8年(1622)に義俊は近江国に1万石に改易、子の義智以降は5000石の幕府の高家として命脈を保つことが出来た。
出羽国の武家。延文元年(1356)羽州管領(のちの羽州探題)として最上郡山郡山形城に入部した斯波兼頼(1316~1379)を始祖とする。兼頼は奥州管領斯波家兼の次男。兄の斯波直持が奥州管領を継ぎ、ともに足利一門三職斯波家の一族として奥羽に勢力を固めた。分郡の最上・村上2郡に依拠し最上氏を称したのは、15世紀初期・欧州探題シナ氏が大崎氏を名乗った頃で、直家・満直父子の代とみられる。
天童、中野、高擶などの2郡内の郷を名字とする多くの庶家分出し、特に最上氏に養子を二度も送り込んだ中野氏と天童氏は重鎮的位置を占めた。
義定・善守の頃、戦国大名として勢力を強め、最上義光の代に最高期を迎え、豊臣期・徳川初期にも巧みな外交・内政で危機を切り抜けて、庄内まで領地を確保した。しかし元和8年(1622)に義俊は近江国に1万石に改易、子の義智以降は5000石の幕府の高家として命脈を保つことが出来た。
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