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何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

チェスト行け!朝がくる

2015-10-31 00:35:07 | ひとりごと

桜島噴火のニュースから「二つの祖国」(山崎豊子)を思いだし、「チェスト行け」シリーズ(「ペンと法でチェスト行け」 「正義と法でチェスト行け」 )を書いていたが、今日から鹿児島で開催される国民文化祭の開会式に皇太子ご夫妻が揃ってご出席になるとニュースで知り検索していると、さまざまな行事の掛け声に「チェスト行け」と記されているので気を良くし、鹿児島つながりで思いつくことを書いてみる。

鹿児島というと現在の朝ドラでも元薩摩藩士が活躍している。
もう長い間朝ドラを見る習慣はなかった我が家が録画してまで見た「花子とアン」。
あれ以来朝ドラから遠ざかっていたのだが、今の「あさが来た」は又また録画してまで見ている。 朝8時から見ている家人が、夜家族と録画を見る時は、次のシーンの解説がしたくてたまらないようだが、何度見ても面白いと言っている「あさが来た」。
まさに朝が待ち遠しいと思わせる、「あさが来た」だそうだ。
その「あさが来た」に、薩摩藩士伍代友厚が登場している。
薩摩(鹿児島)の幕末の志士では「おいの命おはんらに預け申した」の上野の西郷どんと大久保利通が有名だが、伍代友厚は「大阪にビッグなカンパニーを作りましょう」と大阪商人に発破をかけている。
薩摩というと、「二つの祖国」でも男女の洗濯ものを別けて洗わねばならないほどに男尊女卑が厳しい土地柄と書かれており、それは過日の現知事の「女は三角関数を勉強する必要がない」(参照「洗濯ものの向こうに透けて見える偏見」)という言葉にも現れているのかもしれないが、薩摩藩士伍代友厚は少なくともドラマのなかでは男尊女卑に凝り固まった薩摩隼人ではない。 主人公あさが、男女の別なく一目置かせるほど格別に利発だったのかもしれないが、伍代はあさを一人の自立した人間として認め意見を交わしている。これは伍代が幕末藩命によりヨーロッパを視察した経験をもつ開明派であることもあるのだろうが、時代を切り開く才覚ある人間は、藩だの男だの女だのにこだわる狭量な人間ではないということかもしれない。

「あさが来た」は始まったばかりだが、印象に残る言葉は既にいくつかある。
借りたお金を返さない大名家に連日取り立てに行き、ついに幾ばくかの借金を返済させた主人公あさを見守っていた舅の正吉の言葉は印象的だ。
『泳ぎ続けるもんだけが時代の波に乗っていける、そういうことかもしれませんなぁ』
一見すると、絶えず活発に動き回っているあさを指しての言葉に思えるが、これは実は正吉の度量を表す言葉でもあるかもしれない。
時代が大きく変わろうとしている激動の直中で、正吉は男だ女だ使用人だと云わず相手の意見を聞き取り入れる、その柔軟な姿勢こそが「泳ぎ続けるもん」かもしれず、それは次の言葉にも表れている。
あさの商人としての才覚を見込んだ正吉は、店の者には「あさちゃんの言うとおりにせぇ」と命令し、息子新次郎(あさの夫)には「あさは金の卵だ」『卵というのは、誰ぞが温っためてくれる者がないとかえらしまへんねやで』と言う。
そう言われるあさの夫も又「泳ぎ続けるもん」かもしれない。 当時としても破天荒なあさを認め、あさの考えを尊重する夫新次郎の言葉もまた印象に残っている。
『あさちゃんの好きにしたええ よう考えてみい、よぉよぉ考えて進んだ道には必ず新しい朝が来る 』
男女関係なく能力のある者を認め、それを内にも外にも公言する柔軟な姿勢をもつ正吉と、新しい朝のために卵を温める新次郎。
激動期の今、泳ぎ続けて時代を作る者と、そこを泳ぎ続けて時代の波に乗る者を描く「あさが来た」から目が離せない。

ところで、泳ぎ続ける者というと、薩摩藩士大久保利通を義祖父にもつ吉田茂は「呑舟之魚不游支流(呑舟の魚支流に泳がず)」という言葉を好んでいたという。
時代を牽引するような人物は、ただ「泳ぎ続ける」だけでなく、何処でどのように泳ぐのかも重要であり、それでこそ時代を作り時代の波に乗っていけるのかもしれない。

「チェスト行け」を掛け声にした国民文化祭鹿児島の開会式に御臨席される皇太子様は早くから「時代に即した公務の在り方」を提唱されている。
次の時代を見据える視点は、過去と現在を最良と考え守りたい者どもから疎まれる。だが、正しい波に乗り損なえば時代もろとも藻屑と消えるしかないほど厳しい世が、そこまで忍び寄ってきているのではないだろうか。
災害や民の暮らしを歴史から深く学ばれる皇太子様と、現代最高の経済学を修めておられる雅子妃殿下。
皇太子ご夫妻が考えておられる「時代に即した在り方で、チェスト行け!!!」


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