何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ゆく者は斯くの如きか

2017-01-12 23:25:51 | 
昨年夏から何度も読み返しながら、その度に挫折していた本がある。
「後白河院」(井上靖)

本来 井上靖氏の作品は、読みやすい。
「敦煌」「天平の甍」「孔子」など歴史小説は、抑えた筆致と平易な言葉で淡々と記されているため、小説でありながら客観性を感じさせ、読みやすい。
また井上氏は「しろばんば」「夏草冬濤」「北の海」など私小説も多いが、それらが青春時代を描いているという点を差し引いても、私小説独特の独善性はなく、読みやすい。
だが、「後白河院」だけは、どうにもこうにも読みづらい。
読みづらいと感じる理由は、もちろん私の歴史認識の欠如によるものだが、一つ自己弁護をすれば、そもそも本書は末尾に206もの注解をつけねばならぬほどに難解なのだ。

ただ、元旦早々、新聞一面に「上皇」の文字が踊っているのを見つけ、よもや21世紀の現代に、このような言葉に出くわすとはと驚いた時、「後白河院」を読みづらいと感じ続けた最大の理由が分かったような気がすると同時に、空しくなった。

本書は四人の語り手が一編ずつ後白河院について語るという形式で進められ、後白河院ご本人が直接何かを語られるということはない。
第一部の平信範から、建春門院中納言、吉田経房、第四部の九条兼実までの四人が、それぞれ残した日記や回想記を資料とし、この四人を語り手にして、後白河院とその時代を浮かび上がらせていく手法は面白いが、四人の語りをもってしても、後白河院の心の内は漠として、知れない。

何度も幽閉されながら今様などを詠いながら遣り過ごし、御自身が先頭にたち闘うことなく、藤原氏の内部や武家内部を巧妙に対立させ、気が付くと全てを手中に収めているという後白河院の手法は、源頼朝をして「日本国第一の大天狗」と云わしめたほどだ。
例えば源平の戦いでも、平氏討伐の院宣を木曽義仲に出し、源頼朝が立てば義仲追討を頼朝に命じ、平家を倒した源義経が京に戻れば官位を与え、それに頼朝が怒れば、頼朝に義経追討の院宣を出すといった具合。
これを、台頭してくる武家勢力に対する奸智に長けた戦略と云えばそうだが、それよりは、骨肉相食む関係性のなか皇位を思うがままにしようする執念により鍛えられたものに私には思えた。

本書第一部では、後白河院を語るうえで欠かせない崇徳院のご不幸の説明から始まるが、後白河院の人生だけでなく、この時代に不気味さを与えているのが、崇徳院のご出生にまつわる噂とその顛末だ。(『 』「後白河院」より引用)
後白河院の同母の兄である崇徳院は、鳥羽院の御長子として誕生されたが、『鳥羽院はこの王子を御祖父白川院の御胤であるとして、終生父子の愛情をお持ちにならず、おじ子、おじ子とお呼びになって』おられたという。『果たしてこのような事実があったかどうかは判りかね』るが、『鳥羽院が崇徳院に対して、終生愛情をお持ちにならなかったということは、崇徳院がその一生を通じてご経験になられた』ことであり、それが皇位継承問題を引き起こす。
法皇とはいえまだ若く実権を掌握していたい鳥羽院と、御長子でありながら愛されぬ上皇・崇徳院の間に『不穏な気がわだかまり始めたのも已むをえないこと』であり、『眼に見えない不気味なものが、どこか時代の片隅の方に巣喰らいつつあった』というが、この不気味なものは『遊び好きの派手な御性格の』後白河帝が即位することで抑えきれないほど蔓延し、保元の乱につながっていくのだ。
保元の乱の後、崇徳院は流刑された讃岐で崩御されたが、『朝廷におかれまして亡き院のために何の御儀も執り行わなかった』という。

これで兎も角、皇位継承や藤原家内部のゴタゴタが収まり世が鎮まったかといえば、そうではない。

『京中京外、人々は西に東に逃げ惑い、一日として安穏な日のないことは、まことにこれ崇徳院怨霊の所為かと思いたくなる』ような惨状が続いたが、怖ろしいことに、怨霊の所為というのは根も葉もない噂話というわけではない。
『崇徳院が讃岐に於いて御自筆で、血を以て五部大乗経をお書きになり、奥書に天下亡滅を祈って筆を執ったと記してあるものが、御子元性法師の許に伝わっている』という。

このような親族間の骨肉の争い、という話が私は苦手だ。
日本史が得意な友人は、古典の知識を系図に重ねて権謀術数や栄枯盛衰に思いを巡らせることを楽しんでいたが、私にはそのような趣味はない。
私自身、人を裏から操ったり陥れたり呪ったりするくらいなら、いっそドンパチしてしまった方が良いと思ってしまう性質(たち)なので、この時代に武士が台頭してきたことは必然だったのではないかと思うが、本書にも同様のことが書かれている。
『合戦騒ぎが終って、私共に一番はっきりと感じられましたことは、長い間陰気にくすぶっていた皇室や公卿の対立が、合戦というもので、あっという間に片付いてしまったということでございます。極わく僅かな時間で、そうした陰気などろどろした厭なものが跡形もなく消え去ってしまい、片方が勝利を占め、片方が殺されたり、流されたり、幽閉されたりして、信じられないようなすばやさで一切のけりがついてしまったということでございました。 』(第一部より)

だが、一つけりがつけども、更に争いは生じてくる(生じさせる人がいる)

『今日は賊を追討する院宣を賜った者が、明日は立場を変えて賊の汚名を蒙るに到った例は、一、二には止まらぬ。末世と謂う以外仕方ない混乱の時代は長く続き、しかも現在なお終わりにはなっていないのである』(第四部より)

この混乱に乗じ、敵方双方を対立させ争わせ弱体化させ、自らは一度も闘わずして一つ一つケリをつけ、二条帝から後鳥羽天皇まで5代50余年にわたり院政を敷き君臨されたのが、頼朝をして「日本国第一の大天狗」と言わしめた後白河院その御方だが、その見方を、最終章第四部の語り手である九条兼実は、後白河院の崩御後、一変させている。

『世の事件の持つ意味はある歳月を経て初めて判然として来るものである。その事件の渦中にあった人々の言動も、その真実の意味を知るにはある歳月を必要とする』
『(後白河院は)院の政の時代に生まれ、その弊についてお気付きになっておられたとしても、御自分も亦そうしなければ、外戚の公卿朝臣たちをお押さえになることはできなかったのである。~武門の擡頭は一朝一夕の準備にして成ったことではない。たまたまそのような時代に院はお生まれになり、帝位にお即(つ)きになったまでのことである』

終始一貫 頼朝側につき後白河院に意見してきた九条兼実ですら、歳月を経て考えを改めているのだから、それから更に歳月を経た現代人に、当時の院の政や争いが正確に理解できるはずもないことは分かっている。
だが、ひとつ動かしようのない事実としてあるのは、後白河院崩御の翌年、京から遠く離れた東の地に鎌倉幕府が誕生したということだ。(注 ※)

皇位継承に混乱が生じているため、世が乱れたのか? 世が乱れているため、皇位継承に混乱が生じたのか?
院の政が、世の乱れを加速させたのか? 世が乱れているため、院の政を必要としたのか? 
それは、慎み深く心のうちで考えるべきことかもしれないが、よくよく心に留めておかねばならぬことは、その混乱を個人としては上手く掻い潜ることができたとしても、問題の大元を解決しなければ、本体自体が弱体化してしまうということだ。

ある種のイメージが付き纏う「譲位」「上皇」という大時代的な言葉に釈然としないものをもっていたのだが、コンピューターシステムなどの対応という点では、事前に元号が発表されることは有難いことだという。「三つの時代を生きる」
だが、今日は今日とて、報道は錯綜し混乱している。
朝刊で、日経新聞は「天皇退位後「上皇」に」と、毎日新聞は「<退位後称号>「上皇」使わず 政府「前天皇」など検討」と記事にしているが、昼ごろ産経新聞が「天皇陛下の譲位 政府首脳、毎日新聞の「前天皇」報道を否定」と配信している。

混乱は、人々がこの件を軽々しく口にするため生じている。
政府関係者・有識会議関係者がそれぞれに語り、それを受けマスコミがそれぞれ真反対の記事を書き、真反対のそれを受け世論が右往左往する。
混乱すればするほど、人がそれにつき語れば語るほど、軽い話題の一つになっていく。
それで良いのか?

問題の大元に決して触れぬままに、呼称をいかにするかという問題だけで右往左往しているのを見ていると、「いい国つくろう」(注※)と違う体制が成立した歴史が思い出されてならない。
これで良いのか?
この議論の真ん中にあるべきものは、これからの世に必要なのものは、’’敬愛’’だと、私は確信している。

※ 最近では、鎌倉幕府の成立年について諸説あるようだが、ここでは1192年をとっている。


タイトル「ゆく者は斯くの如きか」は、「孔子」(井上靖)に何度も記されれる「論語」の一節。

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