何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

’’かのように’’ 狂想曲

2018-04-13 23:00:00 | ニュース
熱しやすく冷めやすい国民性のせいか、根源的な問題を含んでいるにもかかわらず、あっさり忘れさられた感のある話題がある。

大相撲、土俵、女人禁制問題

これが最も話題となっている時でさえ、その根っこの問題から我が国は目を逸らしていたので、語る気力もなかったのだが…いや既に、いと高き処ご自身が女性の命を軽んずると宣言された あの時や、いと高き処ご自身が法治主義と立憲君主制を投げ出された あの時に、そこを想う上で大切な何かも語るべき言葉も私は失っていたのかもしれない。

だから、意識不明となった市長を救命するために土俵にあがった医療関係者の女性が、「女性は土俵から降りろ」と何度も命じられ、挙句の果てに、女性は汚らわしいとばかりに土俵に大量の塩が撒かれたと聞いても、「あの延長に此れがある、然もありなん」としか思わなかった。

寧ろ、「命と伝統のどちらが重要か、火を見るよりも明らかだ」などとしたり顔で言われると、女児の命と尊厳と 女児を産んた母の命と尊厳が踏みにじられがままに任せてきた、この十数年の世論(我々)の冷酷な無責任を棚に上げ、「何を今更」と鼻白んでさえいた。

だから、思う所は多々あったが、この話題に触れないできたが、土俵の女人禁制が明治時代にできた慣習だという説もあることから、森鴎外「かのように」を思い出したので、掲載しておきたいと思う。
『「かのように」を超えた処』 『「かのように」を要する時代』 「永遠の今を生きる 中庸」

列強が世界中を植民地化していた時代に、独立を守り大いなる発展を遂げた幕末から明治の先人への感謝の念は堪えないが、西洋に追い付き追い越せのために、日本古来の暦を捨て(注、「五郎治殿御始末~西を向く侍」(浅田次郎)、日本原産の牡馬を根絶やしにし(注、「颶風の王」(河崎秋子))、和魂洋才などという言葉で誤魔化し続けたのも、残念ながら確かだろう。

そして、そんな後ろめたさに頬かむりするため、一部の世界に、西洋にはない(儒教的な男尊女卑など)思想を極端なまでに押し付けたのだ。

森鴎外の時代でさえ、その思想や認識のズレは看過しがたく、「かのように」という便宜を用いなければならないほどになっていた。

それを、まだ150年続けている。

「かのように」の便法は、’’かのように’’我々を蝕んでいる。


追記、
海外はどう伝えたか?
<土俵に女性、海外メディアも報道=米紙「日本女性の扱われ方象徴」>時事通信 2018/04/06-15:48配信より
京都府舞鶴市の大相撲春巡業で救命に当たった女性が土俵から下りるよう促された問題は、日本での女性の扱われ方を象徴しているなどと海外メディアでも報じられた。
米紙ニューヨーク・タイムズは「女性は人の命を救うときでさえ、決して土俵には上がることができない」とやゆした。また、「日本の女性は男女平等に関して多くの困難に直面している」として、結婚時に改姓を強いられたり、政治への参加率が低かったりする現状を紹介。「この出来事は日本での女性の扱われ方を象徴している」と指摘した。
フランスのAFP通信は「相撲での性別をめぐるあつれきは今回が初めてではない」と強調。1990年、当時の森山真弓官房長官が土俵上で内閣総理大臣杯を授与する意向を示したが、日本相撲協会の反対に遭って断念した事例などを伝えている。 

他にも、ワシントンポスト、BBC、ガーディアン 、ロイター通信、シンガポールのStrait Timesが詳細に伝え、その中には皇位継承が男系男子に限定されている問題を取り上げ、’’かのような’’思想がPrincess Aikoの即位を阻んでいると言及しているものもあるという。