何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

頑張れ!肥後もっこす・九州

2016-04-17 01:24:55 | ニュース
「災害と戦しちょるごたる 銀杏城・肥後もっこすは勝つ」を書いたときは、生後間もない赤ちゃんが救出されたニュースを見た後だったこともあり、「光と影」の影に呑み込まれず、災害に立ち向かい勝って欲しいという願いをこめ、激励の気持ちを認めたつもりだが、今はそれを申し訳なく思っている。

昨夜眠れないままにラジオのニュースを聞いているところに飛び込んできた、16日AM1時25分マグネチュード7.1(後に7.3へ訂正)震度6強と津波注意報。
被災地から遠く離れた地で、緊急地震速報の音を聞くだけでも胸がふさがれる思いがするのに、間断なく大地が揺れる恐怖に見舞われている被災者の方に今、「事実に’’影’’の色付けをせぬように」などとよくも言えたものだと、我ながら嫌になってしまい、「災害と戦しちょるごたる」を消してしまおうかと思ったが、浅はかな自分を反省するためにも残したうえで、これを書いている。

1時25分のマグネチュード7.1震度6強の地震は、後に7.3に改められたうえで是を本震とすると発表されることになるのだが、これをリアルタイムで聞いていてすぐに気が付いたのが、この地震を境に、震源地に変化が生じたことだった。それまで熊本地方一か所だった震源地に、大分や阿蘇地方も含まれ始めたのだ。
阿蘇といえばカルデラが有名で、それは「死都日本」(石黒耀)を読んでいる私には恐怖を呼び起こさせるものがあるが、その一方で阿蘇は、三好達治「大阿蘇」をかいているように、素晴らしい自然も有している、その阿蘇に今、雨が降っている。

  大阿蘇  三好達治

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる
瀟々と降つてゐる 山は煙をあげてゐる
中嶽の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濠々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
草千里浜のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は瀟々と降つてゐる


熊本は夏目漱石「草枕」の舞台でもあるが、「草枕」に、こんな一節がある。
『世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。
 二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。
 三十の今日はこう思うている。――喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。
 これを切り放そうとすると身が持てぬ』

明暗、光と影、自然の恵みと脅威は表裏一体だと感じさせるものが、熊本・阿蘇にはあるのかもしれない。

明暗といえば、結局眠れぬまま夜明けまで聞いてしまったラジオで、心に引っ掛かることを言っていた。
アナウンサーがしきりに「今日4月16日の熊本の夜明け・日の出は、5時46分です。夜があければ明るくなります。それまで頑張ってください」と語りかけていたが、被災者を励ます「夜明けの5時46分」の言葉は、阪神淡路大震災の発災時刻を生々しく覚えている私には、なんとも皮肉で物悲しく感じられた。

ここにも、光と影はあるのかもしれない。

けれども、光は必ずや影に勝つ!

頑張れ 熊本!
頑張れ 九州!
頑張れ 日本!


辛いけれど参照 「神坐す山の怒りの火」 「破局に終わらせない知恵を」 「つよっしーを信条に」 
「伝承は神の教え其の壱」 「伝承は神の教え其の弐」 「神の教えを継ぐ皇太子様」