はじめまして

今回、新しくブログを開設しました。

ホシガラス日本橋から浅草へ

2011-03-07 14:35:30 | Weblog
 3月5日  冬晴れです。朝の寒さも余り感じません。コート無しで出かけます。

 近くの公民館での吹き矢に参加しました。
 昨日の不調のショックを振り払って吹いて見ました。前半の4ラウンドは大波
でしたが、何とか100点はクリアしました。後半の4ラウンドでは、31,29,
25,として最後は満点の35点が出てやっと復調しました。

 昨日は大会の雰囲気の他に縦横に広すぎる会場で的が何時もより小さく見えた
為、狙い所が狂ったようです。
 優勝は無理にしても上位を狙ったのに残念でした。


 2月6日  今日も晴れて暖かくなる予報です。

 神奈川県内の東海道を歩く会の番外編として先月の品川宿に続いて今月は日本橋
を目指します。

 10時に浜松町駅集合で、我が笹竜胆グループは9名で、総員28名となりました。



 今日は行程が短いのでゆっくりムードです。芝大神宮まで歩き鳥居の外でまずは
準備体操です。



 芝大神宮は関東のお伊勢さまとして崇敬を集め、創建は1005年とのことです。
 芝居で有名な【め組の喧嘩】は、この地一帯を持ち場としていた火消し衆であった
め組の連中と力士とが、ここで大喧嘩をしたことを歌舞伎で取り上げたお芝居です。



 最初は増上寺です。増上寺までの道を一行28名が歩きます。



 増上寺は小学生の頃、父に連れられて参拝に来て堂内でお坊さんから長い長い
説明を聴いた記憶があります。途中で質問すると最初から口上をやり直して説明
するので丸暗記のリズムが崩れるのだなと子供心にもおかしくおもいました。
 70年も昔の想い出です。我が家は真言宗高野山系なのに何故、浄土宗の
お寺に行ったのか恐らく社会見学の一環として連れて行ってくれたのでしょう。

 昔はもっと広々としていたのに背後には333mの東京タワーが覆い被さるように
控えています。右には六本木ヒルズです。



 増上寺は浄土宗の大本山として1393年(明徳4年)の開基で後に徳川家
の菩提寺として厚く保護され今日に至っているとの事です。
 お寺離れの進むこれからの時代に、これだけの壮大なお寺の運営もこれからは
大変であろうと思いながら新橋へと歩き始めました。

 西新橋を歩く一行です。道路も日曜日なので閑散としています。



 新橋となると汐留です。ここは明治になって早々明治3年に汽笛一声新橋を
と歌われて日本初のレールの上を走る陸蒸気の起点です。

 時代と共に東海道線が延び全国津津浦々に鉄道が普及するようになると、ここも
影が薄くなりました。

 そして汐留は貨物駅となり大操車場となって旧国鉄の主要拠点として運営
されていましたが、国鉄解体と共に無用の長物化し広大な土地が再利用される
ようになり今度はオフイス・レストランを含めて一大文化エリアとして生まれ
変わりました。

 明治初年、当時の鉄道建設の起点となり、その後横浜への出発点としての
0ポイント標識が復元されて残されています。



 その説明板です。



 線路の一部も復元されています。





 当時のプラットホームは屋根無しだったのでしょうか?

 最初の新橋駅(当時は新橋停車場)も復元されています。



 内部には鉄道記念館として数々の関連製品や、その昔この地が茫々たる葦原
だったのを江戸時代に埋め立てられたので、そこから建設の際に出土して土器
等も展示されていました。
 又、警視庁のカメラマンだった石川光陽氏(1904~1989)の昭和
モダン時代の懐かしい東京の写真展も開催されていました。旧日劇や朝日新聞社、
円タク、浅草六区の他モボ・モガの風景など懐かしい写真ばかりでした。

 空を突く汐留センターシティーです。何階あるのでしょう。下はオフイスで
上の方は殆どレストランと料亭です。




 新橋から銀座はすぐです。銀座八丁目に今は無くなった銀座の柳の歌謡碑が
ありました。



 傍に植えられている柳は二代目とのことです。



 いよいよ銀座の歩行者天国にはいりました。八丁目です。時刻は12時12分です。
 まだ人出も少なくがらーんとしています。



 ゆっくり歩き適当な処で、お弁当にしますが私は折角の都心なので食べ物屋は
沢山あるし20年以上も銀座に勤めていたので知っている店数多有りで数人と
お店に入りました。

 歩行者天国には椅子もテーブルも日除けの傘も用意されています。
 12時24分の四丁目です。



 13時に集合して日本橋へ向かいます。途中で一本だけ残されているガス燈に
注目します。全く風情の無い街路灯と違って大正のロマンを秘めています。



 また銀座の地名の由来となった碑もあります。
 家康は1612年(慶長17年)駿河にあった銀貨幣鋳造所を江戸のこの地に
移しました。以後ここが銀貨幣鋳造所となりました。
 関ヶ原の戦い(慶長5年)から12年後のことです。

 今で言うとリビアのカダフィ大佐みたいな存在です。その後の一党独裁が良いか
悪いかは未だに解明されませんが庶民は苦労した筈です。

 銀貨を鋳造して役所もあったことから明治2年にここの町名を銀座としたとの
ことです。
 この碑も今では知る人ぞ知るで、素通りする人、覗き込む人、様々です。



 江戸から東京へと変遷していた頃は江戸城を中心に防禦と水運を兼ねた掘り割りが
縦横に巡らされていました。この銀座にもいくつかの掘り割りや川が流れていましたが
昭和バブルの時代の建設ブームで殆ど埋められてしまいました。
 京橋もその一つで今では橋の跡だけが残っています。



 ここには歌舞伎発祥の地としての記念碑があります。当時の芝居は矢張り河原で
興業したのでしょうか?宝永元年(1624年)猿若中村勘三郎が猿若中村座の櫓
をこの地に建てたのが始まりとのことです。



 近くには京橋大根河岸と言われたこの地に青物市場があったとされる碑も
有りました。



 八重洲の大通りには平和宣言の鐘が有ります。折しも東京駅には新幹線が
入線して来ました。



 ここまで来ると本日の最終地点である日本橋も間もなくです。



 お江戸日本橋も今では無粋な高速道路に打ちひしがれています。 
 道路の下は澱んで汚い水が流れています。



 橋の装飾も残せば良いでは無いかとばかり情緒も風情もなく静かに頑張って
います。



 列島改造と称して心より物や金と煽り立て肝腎の人間本来の大切なものを悉く
粉砕してしまった政治家の功罪が現代に影響し、これからも消えない罪として
続いて行きます。

 日本橋を起点とした道路元票が激しく行き交う道路の真ん中に埋め込まれています。





 別の場所にレプリカが有りました。等身大です。



 その傍に北へ向かう里程標がありました。西へ向かう里程標も反対側に有りましたが
西の方が人気が有るのか人だかりがしていて写せませんでした。



 目的地の日本橋に来て、総てを見たので14時13分、橋傍の空き地で仕上げの
体操をして14時20分解散となりました。



 天気が良く程よい暖かさで一日快適に過ごしましたが、ひとつだけ難点は花粉症
です。今まで他人事として聞いていましたが今年は遂に人並みになりました。
 目はしょぼしょぼ、鼻はぐずぐずで時ならぬ時に連続して出る嚔に参っています。

 江戸の時代を偲んで日本橋から離れました。



 ホシガラスは独りで浅草へ向かいます。目的は吾妻橋から見るスカイツリーです。

 日本橋には奈良県の物産館が有り、セント君が客寄せをしていましたが眺める
だけで通り過ぎました。



 メトロで浅草に着き地上に出ると吾妻橋の付近は人だかりです。600mを超した
スカイツリーの見物です。



 東武電車で押上まで行けば近くになりますが見上げなくてはなりません。
 吾妻橋からは程よい姿で眺められます。



 アサヒビールの広告塔も隅田川を隔てて対岸です。



 充分眺めて雷門へ向かいますと途中で歌謡曲のバンド付き青空コンサートをしています。
 時間たっぷりの暇人なので暫く聴いて見ました。昭和20年代後半に流行った上海帰り
のリル を歌っていました。なかなかしっかりと歌っていました。



 まだ15時半です。折角、浅草に来たのでと浅草演芸場を思いだし覗いて見る事に
しました。仲見世を抜けると大変な人出です。島倉千代子では有りませんが、お祭り
みたいです。



 浅草演芸場で出演者を見ると、権太楼・馬風・のいる、こいる・市馬・ゆめじ、うたじ・
文生とトリは扇遊と文楽師匠で期待して入りました。

 のいる・こいるさんを聴いている内に何故か眠ってしまい期待した権太楼師匠の噺は
夢の中でがっかりです。目が覚めると馬風師匠でした。
 川柳師匠は、お馴染みの昭和歌謡史でした。私より二歳下なのに声の張りも良く
歌も上手く羨ましい事です。市馬師匠は期待して待っていたのに、めくりを見ると
代演でがっかりでした。これから伸びる噺家だけに残念でした。
 唯一、詰まらないのは金馬です。私と同年なのに老いぼれで釈台を使い座布団を
折って腰の下に敷き噺もギヤグも下手で聴くに耐えない老残で哀れを感じます。

 文楽師匠のトリは、時そば を独自の演出で心地よく聴かれました。

 幕が降りると21時になっていました。



 流石に仲見世の人出も完全に絶えて人一人居ません。

 

 帰宅すると23時半になっていました。朝の8時から出掛けて15時間半良く
遊びました。