「聖典」はほんとうに聖典なのか。
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聖典とされるものにも、今の時代にそぐわない記述がある。
冒頭の、剣呑な記述は、マルティン・ルターの残した言葉。キリスト教が愛を標榜する平和主義的な宗教なのか?って問題提起。
聖書の記述をそのまま現代にすべて通用させることができるのか?
離婚とか、女性の扱いとか、体罰とか、献金に関することとか、とても今にはそのまま聖書を「逐語的」に適用できない記述が多い。
イエス最期の金曜日、エルサレムの神殿で、金儲けする人にブチギレして、イエスがちゃぶ台ひっくり返したみたいな「暴れん坊」エピソード。
マタイ21:12−17
あまりに人間的すぎないか。三位一体説を取れば、イエス=神。神がブチギレしてちゃぶ台蹴っ飛ばしていいのか?
エホバの証人がつい最近まで体罰を容認していたのも、旧約聖書で「体罰(愛の鞭)を控えちゃダメ」って書いてあるから。
「聖書をそのまま実践しようとした」ことだけで一冊の本になったりする。
同様に、聖書の教えに忠実であろう、とするのがキリスト教の一派・福音派になる。
要は、世の多くのクリスチャン(世界23億人)は、言葉を選ばずに言えば、聖書の「つまみ食い」をしている。
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論語だってそうだ。
女子と小人は養いがたし
なんて、男尊女卑そのまんま。
まあ、2500年前のシナにおける文化と教育レベルの低さから、女性を低く見ざるを得なかったのも頷ける?
いや、理性重視の「男性脳」からしたら女子は養いがたし、って言えるだけであって、感性重視の「女性脳」からしたら、むしろ「男子は養いがたし」なんだろう。
私もいつも家では妻に叱られているし(笑)
この辺(男性脳と女性脳の違い)は黒川伊保子氏のトリセツシリーズに詳しい。
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仏教だって似たようなものだろう。
ブッダの言葉はよく知りませんが、例えば日蓮の「我日本の柱とならん」とかの三大請願とかも、額面通り受け取っていい場合とよくない場合があろう。
禅語でも「仏に逢うては仏を殺せ」ってのがある。
仏を殺せ?
額面通りに受け取るのか、それともその文脈を解釈するのか。
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このように、どんな聖典も、揚げ足を取って、切り取って、文脈を無視して、悪意に解釈することはできる。
でも、どんな宗教も、ある程度の「つまみ食い」をしているのではなかろうか。
そしてそれでいいのではなかろうか。
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最近は話題になりませんが、家庭連合の教典の『原理講論』の揚げ足をとって「反日だ!」と攻撃する論者・メディアがいました。
しかし、大事なことは、「経典になんて書いてあるか」ではなく、「今の信者がそれをどう解釈しているか」であるはずだ。
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なお、本稿の論旨とは外れますが、「つまみ食い」をしないで、創始者の言ったことをそのまま生かしているのが、サイエントロジーさん。
日本では宗教法人とはなっていませんが、創始者ロン・ハバードが膨大な著作と講演を残して、それを「そのまま」生かすのがサイエントロジー。
トム・クルーズとかジョン・トラボルタで有名。トラボルタはサイエントロジーの教えを映画化までしている。
ロン・ハバードが亡くなったのが1986年。死後まだ38年。
いつまでロンの遺作の「逐語的実践」が続くか。見ものである。