執行草舟の思想を一言でいうと、崇高さへの憧れ、かな。
崇高への祈り、でもいい。
崇高への思慕、か。
崇高への挑戦、とも言える。
気高く、美しく、荘厳で、神々しく、深遠で、遥か遠くにあり、届かない。永遠に届かない。憧れ。畏れ。
崇高、って、普段使わない言葉。英語ではsublime.
普段使わないってことは、我々が日々全く意識していないってこと。それくらい、我々は執行草舟から離れているし、執行草舟は我々から離れている。
崇高へ憧れ、崇高を希求し、崇高を夢見て、崇高の前に死ぬ。犬死にする。
それが人生だ、と執行草舟はくり返し言う。
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崇高、といえば思い出すのは、保守の始祖・エドモンド・バークの『崇高と美の起源』。「崇高」sublimeと「美」beautifulを分けた。崇高には恐怖・畏れが含まれる。
この『崇高と美の起源』には、バークの信仰が大きく影響している。
こちら
その信仰心から、崇高を希求したバークが、「保守」概念を創り出した。つまり、「保守」って、文字からは、だっさくてもっさいけれど、ほんとうは崇高なんですよね。
『崇高と美の起源』でそこまで保守との関係は言ってなかったはずですが、今度再読してみる。
死んだ人、今生きている人、未来に生まれる人。これら3者を同等に扱うのが保守の真髄だと私は思っている。長期的な視野で考える。
一方、リベラルは、歴史を深く学ぶことがなく、今の時代の、今の知恵を前提にモノを進める。視野が短期的。
いやいや、「今の時代の、今の知恵」なんて、たかが知れているだろう、それを重視して何度歴史が誤ったことか、って考えるのが、保守。
保守は、慎重。
リベラルは、(拙速で)傲慢。
リベラルから見ると、保守は、慎重どころか、頑迷固陋の旧世代の遺物と映っていよう。
しかし、「今の大事の、今の知恵」をそれほど重視しない保守は、本質的に、慎重である。慎重で何が悪い。保守諸氏は開き直るといい。