LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

納豆論議5:納豆茶漬

2007-04-29 | 男の料理
ついに試す時が来た。
納豆茶漬け?

「魯山人味道」中公文庫は、小生のバイブルのようなものだ。
その中で、納豆に関するくだりがある。
いつだったか、小生もブログの中で魯山人と納豆を取り上げた事があった。
その時には記載したなかったが、実は「魯山人味道」の中で言っているのは、単なる納豆の拵え方だけではなく納豆茶漬けの美味についてなのだ。

しかし、納豆茶漬けを想像すると、納豆を十二分にかき混ぜたあの白っぽい粘りが茶碗の中で浮遊するが姿が浮かんでしまい、どうにも抵抗があった。
そんなわけで、納豆茶漬は小生の記憶の片隅に追いやられていたのだ。

ところが、どう思考回路が変わったのか、小生納豆をいつものようにかき混ぜていると、「そうだ」と思いきや「お茶漬けにする!」と家族に宣言してしまった。
こうなると後には引けない。
家内がやかんを片手に白い目で見ている。
唯一の救いは、刻みネギだった。
なんとかなるだろう...。

丹精こめて練り上げた納豆に、刻みネギと和カラシとタレを軽く合え、ご飯の上にかけた。
ごはんに乗せる納豆の量は、魯山人の教えに従い、飯の1/4程度。
納豆は少なきに過ぎては味がわるく、多きに過ぎては口の中でうるさくて食べにくい。
また、納豆のタレだけでは塩加減が足りないので醤油を加える。

うーん、ん?
極めて美味いというものではなかったが、確かに食べてみる価値はある。
変な臭みもない。ネギが良かったのかも知れない。

これはたやすいやり方で、簡単にできるものである。
早速、口福を満たさるべきではなかろうか、と魯山人も言っている。
是非お試しあれ!





LOHASと、もったいない

2007-04-25 | その他
筑紫哲也著「スローライフ」緩急自在のすすめ~岩波新書を読んでいたら、
LOHASの記述があった。

Life of Health and Sustainability -健康で持続可能性のあるライフスタイル
雑誌「そとこと」が2005年以来特集記事を掲載したことが日本で広まったらしい。

小生もブログタイトルに「LOHASな感じ」としているように、LOHAS的生活に興味があるし、そうでありたいとも思っている。

筑紫哲也は、Sの文字Sustainabilityの訳語について取り上げていた。
確かにSustain(維持する)という言葉はLOHASの中心的概念だ。
小生、多少なりとも楽器を演奏?していたので、サスティーンが効いているなどと表現したりすることがあるので言葉自体はキザっぽく使ったりしていた。

LOHASは、環境が維持できる可能性の範囲内に人間の営みを限ろうする生活スタイルを言う。

しかしながら小生、そういった事を明確に意識しながら生活をしていかなければならないとは考えてはいない。
あくまでも感覚だ。
なんとなく「そとこと」や「ちるちんびと」「住む」などの雑誌を読むと、その考え方に共感できるし、自分もそんな感じがする。
いや、憧れなのかもしれない。

大量生産、大量消費の時代に育って、消費が美徳と市場が推奨したことに対する一種のあまのじゃく的発想なのかも知れない...。

ところで筑紫哲也は、LOHASと「もったいない」を関連づけていた。
ケニヤのマータイ女史が世界に広めようとしている「もったいない」という言葉。
リデュース(ごみの減量)・リユース(再使用)・リサイクル(再利用)を日本語で一つにまとめたものを日本語にしたものが「もったいない」になるそうだ。
そう言った意味で、「もったいない」は持続可能性に通ずるところがあるとしている。

しかしながら、皮肉なことに原産地日本では「もったいない」は、もはや死語になりつつあるのだ...。

と、思っていたら、なんと
「もったいない」・・・NHKみんなの歌で、ルー大柴の二人組みが今歌っているというではないか。
「もったいない」復活の兆しか?





空間の行間

2007-04-24 | 建築と文化
点と点の間、あるいは、物と物の間に存在する間。
それはからっぽで静寂な無。
見ることも、聞くこともできないが、感じることはだけはできる。

そんなイメージなのだろう。

「空間と行間」磯崎新・福田和也著 筑摩書房

空間と行間、磯崎新らしいタイトルだ。
歴史的建造物から、建築・文化を紐解いている。

私は歴史というと決して得意とする分野ではないが、
小堀遠州の一節には多少なりとも興味を覚えた。

利休の茶室では、小間の囲いが、大名と家来、町人など人間関係が解除された中で一対一で話をするという演出があったが、遠州の場合は違っていた。
武士と公家好みを折衷し、ある程度の開放的な趣で茶を捉えているのが遠州だ。
遠州は衝突する側面を隠蔽していくのが生涯のテーマだったようだ。
そして、茶室は囲いから開放的になるにしたがって数寄の要素が強くなっていったのだ。

空間の行間では、東大寺南大門、伊勢神宮、厳島神社、安土城など歴史的建築物を切り口に様々な角度で捉えていた。

建築はまだまだ尽きない...。






風の鼓動

2007-04-23 | lohas的情景
久しぶりに千波公園を散策した。
風の鼓動は、風と共に動く水辺の白いモニュメント。

染井吉野は咲き終えても、湖畔には数は少ないが八重桜が満開だ。
小川沿いに菜の花が咲き誇り、梅林の公園には水仙が可憐に咲いている。

風の鼓動と共に日は暮れていった。



NIKKEIプラス1から

2007-04-22 | その他
そう言えば、最近感謝する言葉って言っていないよなぁ。
昨日の日経プラス1の記事「何でもランキング」を読みながらそんな事を思っていた。

記事の見出しには、「夫に言われて傷ついた一言」とあり、15項目がランキングされていた。
うーん、思い当たる発言があるある。
これはまずいかも知れない。
特に思い当たるのが、男女会話の手法の違いだ。

記事通りの内容で、男性は報告や結論を求めて話すが、
女性は過程に重点を置くので結論はなくても良いことが多い。
それを理解せずに話を遮ると妻は不満を感じる。
これは、妻だけでなく聞き手である小生も不満に感じるケースは多々あるのだが...。

小生、非常にセッカチかつ几帳面または大雑把という性格を持ち合わせており、
いずれにしても前置きが長いのはあまり好まない方だ。

我が家においての問題だけかなと思っていたら、意外と男女の会話の手法の違いで衝突するケースがある家庭が多いのに驚いた。

まあ、それでも沈黙の貝殻に閉じこもるより、互いに思うことをぶつけた方が良いと記載してあった。

ちなみに、妻が言ってもらってうれしいのは、食事への感謝や、妻の努力をきちんとみて評価する言葉だそうだ...。




絶対音感

2007-04-10 | 音楽の調べ?
岩城宏之の「音楽の影」文芸春秋社を読んでいたら、
絶対音感についての記載があった。
岩城宏之は指揮者で、知っている方も多いだろう。
確か、昔、ネスカフェゴールドブレンドのCMに出ていた。
違いの分かる男。
多分20年以上も前の事だったと思う。

指揮者には、絶対音感は当然ながら備わっているものだと思っていたら、
なんとそうでもないのだ。
岩城宏之自身、絶対音感は無いと言っている。

絶対音感とは、様々な音の高さを聞き分ける事ができる能力だ。
小生、多少なりとも楽器を演奏するので興味のある言葉だが、
残念ながら確実に絶対音感は無いと断言できる。
ギターのチューニングにしても、基本の音が未だにこれだと言える自信が無い。

岩城宏之の絶対音感が無いと言うのと、小生が言うのでは当然ながらレベルの差は大きいはずだ。
でも、音楽はフィーリングだと自分に言い聞かせ、日々自己満足の世界に浸っているのだ。

絶対音感、岩城宏之はこんな捉え方をしていた。
絶対音感を持つことと、音楽才能とは別のことである。
幼いときから音感の訓練を受けていれば誰にでも可能なことだそうだ。
猿にも可能じゃないかとまで言っていた。
うーん、それもどうかとは思うけど、確かに音楽才能とは別物のようだ。
また、絶対音感の持ち主は音程に融通性が利かないそうだ。
合唱などのハーモニーの場合、一曲が終わる頃には音程が半音の1/4程度下がっているのが自然らしい。
しかし、絶対音感の持ち主はその辺が苦痛に感じられるそうだ。

音と音の間の開きを、音楽的に感じる事を相対音感と言っている。
小生、初めて知った。

そうだ、相対音感だよなぁ。
カラオケでキーを外している貴兄に、相対音感という言葉のプレゼントはいかが?


松田聖子とスタートライン

2007-04-09 | その他
45がスタートラインと言い放つ松田聖子。
帰宅しTVのスイッチを入れると松田聖子の特集が放映されていた。

45歳かぁ。
45歳である松田聖子は未だにアイドルであるようだ。
デビューしたのはいつなんだろうと思いながらも、
年月の過ぎる速さを改めて感じる。

実は、小生も今日45歳の誕生日を迎えた。
こんな日に同年代の松田聖子を放映するのも奇遇だなぁと感じながら、
デスクには、ARTISAN Patissier ITABASHIの洋菓子とシングルモルトを傾けながら
ホワイトオークのペンで草稿する自分がいた。

スタートライン。
果敢にトライして行きたい...。




原っぱと遊園地

2007-04-01 | 建築と文化
青木淳は、ルイヴィトン表参道やルイヴィトンニューヨークの設計で知られている。
水戸にもルイヴィトンの店舗が出来たこともあり、何となく気になっていた。
もっとも水戸のルイヴィトンはテナントとして入っているので、意匠的な感動はあまり感じられないが。

青木淳は、著書「原っぱと遊園地」王国社の中で、
建築は、「遊園地」と「原っぱ」の二種類のジャンルに分類できるのではないかと述べ、その中で住宅建築における考え方を示していた。

普通には、「至れり尽くせり」は親切で良い事だと思われている。
でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の対等関係である。
しかし、見渡してみれば、住宅を取り巻く状況は、
すでに「遊園地」に見られるように、
空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮がある。

青木淳の住宅建築に対する思いは、「原っぱ」にある。
住宅が「原っぱ」であるというのは、
そこが人の生活の中で大きな位置を占める場所であり、
住む人と空間との関係に自由があることを感じとられたほうがいい。

建築がどんなに住む人の気持ちとぴったりと合っているとしても、
建築が住む人の気持ちに留まることを拘束するのであっては、怖すぎる。
いつでも、この空間を別のあり方に変えることができる。
そういう気持ちがあるようにつくられるべきではないか、と思う...。

うーん、青木淳が発言している意味そのものは理解できるのだが、
実際の住宅設計レベルで「原っぱ」を取り入れて行くのには、まだまだ課題が多いなぁと感じた。