LOHASな感じ!

日頃、仕事やプライベートで感じた事をLOHASな感覚で書いています。

考え続ける苦痛|持続する困難

2007-02-27 | 建築と文化
安藤忠雄は、著書「建築手法」の中で建築に対する考え方についてこう述べていた。

建築することは思考すると同義である。
建築の思考とは、理路整然と論理を組み立てて考えることではない。
あらゆる物事の本質を見極めたいという欲望が、何事も原点と考えるという、
ほとんど肉体化された思考となり、スケッチに置き換えられていく。
時として、与えられたプログラムは自らの内で大きく道をそれ、深まり変形していく。
  「建築手法」~考え続ける苦悩-持続する困難より

安藤忠雄は、その変形していく過程において、自らの思考の自由性を失わず、
常にあらゆる環境を見据え、図面の一本の線に自らの意思を凝縮させて行こうとしている。
ここに安藤忠雄の思い描くイメージが、クライアントサイドのコンセプト・意匠・コスト等と対立し、
考え続ける苦痛や持続する困難が存在するのだろう。
しかし、決して逃避的な思考ではなく全く逆の発想だ。
クライアントの思考の本質を理解し、さらに建築としてあるべき姿の本質を捉えクライアントに最大限提案する。
決して逃げない。
徹底的に自分を追い詰めていく。
自己満足で終わってしまう短絡的な提案ではない事は容易に想像される。
クライアントと共に進むという強い精神のもとに成立する論理だ。

意外と分かっているようで分かっていない。
クライアントに受け入れてもらえない提案は、結局は自己満足の世界にしか過ぎない。
現実はコスト等の問題も大きく影響する場合もあるが、そこまでの過程において最大限の苦悩を重ねてきたか?と言えばどうだろうか。
単なる自己満足主義的な机上の発想では通用しない。

クライアントの建築に対する本質が理解できるまで、徹底したコミュニケーションが図れていたか?
本質は理解できても、それを具現化するためのあらゆる努力をしていったのか?

自分自身に改めて問い直してみたい...。







郷愁感|家

2007-02-25 | lohas的情景
最近の住宅は郷愁感がないと思うのは私だけであろうか。
住まいに対する懐かしい思い出とは、どんな光景だろうか?

消費者の価値観があまりにも多様化して、今の住宅事情はこれといった共通性がないのが特徴だ。
以前は、在来工法で建てられた家が多く、少なからずとも一部屋程度の和室はあった。
和室周りの柱が年月と共に傷つき、十年以上も経過すると新築時の様相は無くなっているのが普通だ。
そういった柱の中には、幼少の頃にいたずら書きした痕や身長を記した痕も残っているのではないだろうか。

最近の住宅は、見出しの無垢の柱を一切使用しないで建てるケースがある。
プレハブメーカーやツーバイフォー住宅はその顕著な例だが、
いわゆるローコスト系の住宅も同様だ。
勿論、絶対に使用しないというわけではないが、同じ柱でも大壁(柱が見えない壁)に使用する柱と、真壁(和室など柱が見えている壁)に使用する無節の柱とでは、コスト面で雲泥の差が出てしまう。
消費者も特に無垢材などにこだわりが無い場合、たとえ和室であっても大壁でクロス仕上げを選択しているケースが多く目立つ。

クロス壁には、何千種類という柄の中から選択でき、ある意味オリジナリティのある空間に仕上げる事が可能だ。
自ら選択した内装が仕上がった時、引渡しと共に湧き上がる感動は一塩だろう。

一方、左官仕上による壁は、最近になって色柄がある程度選択できるようにはなってきたが、それでもクロスの比ではない。
壁そのものは、あまり主張しない。
しかし、真壁は年月と共に風合いを帯び、空間に安定感を与えるのだ。
そこに住まう人をずっと見続けているようにさえ感じる。
そのような意味での安心感・安定感なのかも知れない。

真壁の空間を表面的に構成する左官仕上げの壁、そして無垢の柱。
たとえ傷ついても、煤けてもそこに堂々と存在し続けられる。

真壁のみにこだわらず、そういったものは住宅のいたる所に存在していたような気がする。
杉材を使った縁台、下見貼りの外壁、家の中から出ている煙突。
すりガラスの入った木製の窓。
それらは、傷つき、色褪せ、そこに住まう人と共に歴史を刻む。
こういった事が、そこで生活していた人々を寛容に受け止めるのだ。

人々は、寛容のなかに郷愁を感じるのではないだろうか...。






琉球畳

2007-02-24 | 建築と文化
最近、琉球畳を要望されるお客様が多い。
半畳サイズで畳縁がない畳を 市松模様にして居室に敷き詰めているイメージが浸透しているのか、畳の打合わせ時には必ずと言って良いほど琉球畳の話がでる。

琉球畳は、専門的に言うと琉球の表を使用した縁なし畳でなければならない。
琉球表は、いぐさではなく七島藺(shichitoui)を使用する。
素朴で粗い風合いをもち、通常のいぐさ表よりしっかりしている。
以前は、柔道場の畳表に使用されていたほどだ。
しかし、琉球表は流通量は少なくそんなに市場に出回っていないのだ。
それなのに、これほど認知度があるのは...。

実は、一般的には目積畳を琉球畳と言っているケースが多いのだ。
目積畳は通常の表より目が積んであるのが特徴だ。
そのため通常の表より丈夫で、縁なしでも使用できるというものだ。

本格的な和室にというよりも、モダン和風をコンセプトとしているような現場に調和する。

確かに市松模様の縁なし畳は、琉球畳にしても目積畳にしても、今までにない居室の雰囲気を変えるが、
畳の角や縁の部分が、縁ありのものよりも傷みやすいという欠点はもつだろう...。

Dreams come true|水戸芸術館

2007-02-23 | lohas的情景
水戸の事務所より帰宅する時は、いつも水戸芸術館前を通る。

なぜか今頃、芸術館と敷地内の樹木がイルミネーションで飾られていた。
例年、年末から新年にかけてイルミネーションで飾られるのは、冬の風物詩として知っていたが、
今頃どうしてなんだろう?と瞬間的に疑問を抱きつつ車を走らせた。

正四面体の連なったアートタワーが視界に入ると、
≪Dreams come true≫ と電飾された文字が夜空にむけて発信されていた。

一瞬、オノ・ヨーコが個展で天井に【YES】と書いた文字を ジョンレノンが見て感動した事を思い出した。

残念ながらジョンレノンが感じたと思われる程の感動は無かったが、
車の中で「Dreams come true?」と思いを巡らしながら帰宅した...。







江名にて

2007-02-22 | lohas的情景
現場同行のため、久しぶりに江名まで足を伸ばした。
江名は、いわき市小名浜港からもう一つ北に行った所にある漁港だ。

江名の海岸通りは、昔はさぞ賑わっていただろうと彷彿させるような建物が立ち並ぶ。
人通りはあまりない。
十数隻の漁船と魚網が物静かに景観に溶け込む。
海岸縁には、漁船を修理している人影数人。船の塗装でも行っているのだろうか。

そんな中、車窓に飛び込んできたのは、澄み切った空と太陽の照り返しを受けている海だった。

うーん、いいなぁ。こんな所で暮らせるなんて。

同行していたスタッフに車を降りるなり思わず言った。
2月とは思えない穏やかな海は、実際には人知れない冬の厳しさもあるだろうに、そんな素振を一切露呈していない。


そのような所に、今日から着工した住宅改造工事の現場がある。
スタッフの活き活きとした笑顔と、品質管理への厳しい表情が印象的だ。

スタッフと共に顧客満足と品質管理に努めて行きたい。












茶事の心 | 和

2007-02-20 | 美の壺的解釈
水戸の事務所から駐車場に出ると、今増築工事を行っているお施主様の祖母がたまたま通りかかった。

挨拶をすると同時に、先日の茶事の心について感銘を受けたことを話した。
「先日言いたかった事は、一期一会という事ですよね。
 茶事は同じことは無い。
 だから、一瞬一瞬を客のためにもてなす。
 亭主は客の心を思いやる。と同時に、客は亭主の心を推し量りながら茶事に望む。
 本当に素晴らしいことですね。とても感激しました。」

「お茶と言ったら、私は【和】であると言います。
 たとえば、お茶は一人ではできない。客人あっての事でしょ。
 茶事においても、互いに【和】を尊重し合わなければならないのよ。」
いきいきと喜ばしそうに話してくれるその姿は、過去の流れを凝縮するように自信に満ち溢れているものだった。
「お茶はとても奥が深いのよ。」と最後に言い残しその場を去っていった。

時間にしてほんの数分の会話だ。
しかし、非常に印象に残った言葉だった。
【和】というものは、もちろん茶事の世界だけでない。
一般社会にも絶対必要だよなぁ、と改めて考えさせられる。

他人を思いやる心...。
そこに和が生まれる。


 
 

三和土|tataki

2007-02-13 | 建築と文化
今や土間の床を材質に関わらずタタキと言っている。
一般的にはモルタルやコンクリートで出来ている場合がほとんどだろう。

しかし、本来タタキは三和土と書くように、土で仕上げたものだった。
正式には、三和土は石灰・赤土・砂利に苦塩を混ぜて練り上げたものを土間に塗り固めたものだ。

古民家の玄関の内部がなどがよく三和土になっている。
土間に微妙に凹凸があり、なんとも言えない土ツヤがあるその風情は、歴史の重みさえ感じさせる。

また、昔釜戸を置いていた場所も三和土になっていたりする。
土そのものは汚れやすく埃っぽいという欠点をもつが、三和土は決してそういうイメージはない。
逆に、釜戸の薪を燃やす香りと周辺の柱、天井、建具がすすけて黒光している様は、土間の雰囲気と共に絶妙な調和があるように感じる。

そしてそのような民家は、通常玄関を入ると腰掛られるぐらいの高さの式台があり、奥行きも三尺から六尺程になっている。

バリヤフリーの観点から、そういった段差を解消するリフォームも手がけてはいるが、その解決方法として土間部分を無くしてしまう事が多い。
意匠的にも既存宅のイメージを損なわないように質感あるものに仕上げるのだが、
三和土そのものの味は無くなってしまう。
腰高の式台も、来客者がそこに座って世間話をするには調度よい高さだが、居室の出入りには確かに不自由を感じてしまう。

そこで、バリヤフリーを叶えつつ、そういった三和土や式台をいかに意匠的に活用していくかは我々腕の見せ所になっているのだ...。







湖畔にて・・2月

2007-02-12 | lohas的情景
穏やかな日が続き、休日ともなるとさすがに人出が多くなる。
それでも今日はいつに無く駐車場が混雑しているなと思っていたら、
偕楽園を訪れる他県ナンバーの車が目立っていた。

梅まつりは再来週の20日からだか、梅の開花が例年より早いという知らせを受けてここ千波公園も賑わっているのだろう。
早咲きの梅が開花しているが、梅本番というまでにはまだ時間がありそうだ。

湖畔に出るとまだ肌寒い。
久しぶりに千波湖一周3Km を歩いた。
日頃の運動不足がありありと実感できる。
ジョギングしている老夫婦に追い越され、羨望の眼差しで後姿を追いかける。
よし、走るか。
という思いはあっても、重い足がやめておけと囁きかける。

一周歩き終えて、小川沿いの小高いベンチに腰を下ろす。
水鳥が湖畔の照り返しを受けて、時折シルエットとして映る。

しかし、この運動不足は問題だ...。







原皮師|motokawashi

2007-02-11 | 建築と文化
伊勢神宮や清水寺、善光寺の屋根は檜皮葺になっている。
檜皮hiwadaとは、文字通り檜の皮の事だ。

その檜皮を竹釘で野地板に留めていく。
檜皮葺は、柔らかい曲線が建物全体の繊細優美な印象をかもし出しており、まさに日本建築の美そのものといった感じだ。

しかし、その檜皮葺も後継者や檜皮材の問題、耐火性の問題などで少なくなって来ているそうだ。
確かに一般的な建築物には使用されない。

また、その檜皮は樹齢百年ほどの檜でないと屋根材として使えないそうだ。
さらに、一度剥いだ木からは八年余りの間、再び檜皮を採ることはできないのだ。

その檜皮を採取する職人を、原皮師motokawashiと言い、現在全国で15人程度しかいないとの事。
今回初めて知った。

「古建築の技 ねほり、はほり」 理工学社 
文化庁選定保存技術保持者14人の記録より~

原皮師は一本の縄で足場をつくりながら立ち木に登り皮を剥いでいく。
檜皮葺屋根一坪当たり、150Kg の檜皮が必要だそうだ。
伐採した木でも良さそうだが、立ち木から剥いだ皮の質とは比べ物にならないそうだ。

うーん、確かに檜皮葺にしても原皮師が剥ぎ取る檜皮がないと施工もできないよなぁ。
原皮師は材料の供給だけで建築現場には登場しない。
裏方に徹した仕事だ。
そういった方が日本文化・日本建築を支えているのだ...。








日本一ベンツを売る男

2007-02-10 | 建築と文化
2日に一台メルセデスを売る男がいた。
年間160台を販売した実績があるそうだ。

「日本一ベンツを売る男」ザ・トップセールス吉田満の販売術~グラフ社

自動車の中でも最高級クラスのメルセデスベンツということもあり、
顧客層や販売方法なども当然ながら異なるのだろうと感じていた。

確かに本を読んでいる限りでは、通常私たちが考えている世界とはまったく異なる感じがした。
しかし、著書の中でトップセールスの吉田氏はこんな事を言っていた。
セールスマンに必要なものは何か?という問いに対し、

「特に年配の方や女性は、持っている不安や疑問がなかなか言葉として出てこないものです。
ならば心を読む。
言わんとしていることを的確に読んでいく。
そのような力が求められます。
けっして私は超能力者ではありませんが、
常にお客様のほうを向いて接していれば、
要望、要求、期待が、ある程度見えてくるものです。」

うーん、確かにこれはメルセデスのセールスに限ったことではない。
我々建築業界においても同様だ。
いや、商談中には目的物・完成物が無い建築業界においては、さらにそう言った姿勢が必要だ。
プレハブメーカーのように、ある程度規格物として提案できる場合はまだ良いが、
全くのオリジナル住宅やリフォームの場合はそうは行かないのだ。

お客様満足を実現するのには、
どの業界であっても、いかに本気になってお客様と接することができるか?
という事だと痛切に感じる。