明日につなぎたい

老いのときめき

『地区の人々』と『泥の河』

2020-02-12 16:52:04 | 日記

 最近、ちょっと体調よからず、2種の小説、小林多喜二の『地区の人々』、宮本輝の『泥の河』を読んで過ごした。「水の流れの分からない、蒼ぐろくトロンと澱んでいる河で、始終ギラ、ギラと油を浮かべていた・・・腐ったタマラナイ匂いが、ムンとくることがあった」(小林・地区の人々)。「藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れる黄土色の川を見おろし・・・」(宮本 輝・泥の河・1994年)。汚れた川の描写から始まっているのに興味を覚えた。前者はY市の鶴田川となっているが、後者は大阪の安治川と明白である。時も所も違っているのだが、私は、ある共通点を見た。澱んだ泥川と、あたりの貧しい人たちの息遣いである。

 

 『地区の人々』では、N鉄工所の争議が主題である。だが、臨時工、本工の首切りと賃下げには触れもしない。在郷軍人分会が軍服でビラ撒き、ストライキ了解という軍人争議団、要するに軍国主義の宣伝で、満州事変(日中戦争)が始まっていた時期の争議だったのだ。あるオルグが言った「およそそれらの指導者が思いもよらなかったような革命的経験を手づかみにするようなものなんだ・・・」「・・どんなに笑ってくれてもいいです。だが、我々の地区の火だけは消さずに、今、こうやってあんたに継げた」。時の流れがどうあれ、地区の人々は、こんな熱い会話を交わしているのだった。

 

 『泥の河』の解説(桶谷秀明)には「読む者の心に刻みつけた感触は持続性のあるもので、それは、描かれた風景を暗示する奥ゆきであった」と書かれている。水上生活をする貧しい母と娘の姿が哀れである。私も、この地を1950年代から最近まで何度も往来することがあったが、確かに『泥の河』の空気を感じたような思い出がある。今、私たちは、このあたりを木津川筋と称するようになっているが、裏通りはともかく、道路は舗装され、、その両側にはビルが並び立つ。街の様相は一変している。だが、ここの風土というのか、この地区の人々の人情は温かい。多喜二も,生きてここにくれば、そう思ったに違いないだろう。『地区の人々』には「新しい発展の段階と次の傑作への道が示されていた」(宮本百合子)との評価が加えられている。。



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