明日につなぎたい

老いのときめき

私と西淀川

2022-09-10 11:12:46 | 日記

 終戦直後、私は、ある化学系の民間企業の新米社員たった。職場は北区扇町にあった大阪市の工業研究所の一室。そこに二人の共産党員がいた。熱に浮かされたような女性だった。やいやい入党を薦められる。隣には大阪市衛生研究所があった。戦前、東大などで左翼運動、検挙投獄の経験もある、公衆衛生の先生がいた。唯物論研究会に誘われ、哲学を教えられる。同じ職場の女性からも言い寄られ、あばら家のような北地区事務所で、若い専従党員の推薦で、入党申し込みを書いた。1946年4月21日だった。今でも、はっきり覚えている。翌47年、2・1ゼネストにぶつかる。国鉄宮原操車場にピケ要員として動員された。深夜、井伊弥四郎国労委員長の、涙の中止報告をラジオで聞いた。アメリカ直接の、対日支配を実感した、私としても初めての悔しい体験だった。

 突如として私の運命を決定づける事態が生まれた。48年夏、北地区専従者全員が、占領政策違反の容疑で警察に逮捕された。地区事務所はカラッポ、赤旗分局員からの伝言「すく゛出てこい」。否応なしに地区の専従者にされる。大阪2区の川上貫一初当選の喜びに沸いたのも束の間、50年、朝鮮戦争勃発、国内は特需景気で不況打開、こんな大事な時に、50年問題という党分裂に直面、何故か、私は当時の「指導部」から北大阪へ東部地区へ東大阪地区へと転々。こんな非民主的な人事、誰がやったのか、見当はついているが、蒸し返す気はない。55年に6全協、とにかく分裂から団結へのレールが敷かれた、西大阪地区(西淀川、此花、福島)に行けと言われたのは1958か59年だった。私は心に誓った。「国際派分派」とかの除名者は一人も出すまい。

 

 60年安保はここで闘った。61年第8回大会で綱領決定。現在の綱領の基礎になっている。御幣島の労働会館を借りて「政治学校」を開いた。ここで優れた幹部、活動家が生まれた。沓脱市議(後の参議員)の高位当選、定数2の林府議の初当選(63年)は世間を驚かせた。共産党が押しも押されぬ第一党になったのだ。しばらくして私は大阪府委員会に移動、71年、75年には黒田革新府政が誕生する。とにかく、定数1とか2のところで、共産党、革新の候補が勝利する。これは、地方政界のみならず、国政選挙でも求められる課題である。これなしに革新政権の樹立はありえないのだ。西淀川はじめ他を寄せつけぬ地域をつくり出す、これは今生きるものの至上課題ではないか。この戦略図をもって戦うことが求められる現代ではなかろうか。

 


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