明日につなぎたい

老いのときめき

歯が痛いが・・・

2021-07-20 11:19:59 | 日記

 正確にいえば、歯そのものではない、歯の根っこにある筋肉である。ここが痛いのである。明け方、布団の上で、ふと思い出した。20年ほど前だったか。退職した仲間同士の一泊旅行に誘ってくれた。行く先は四国・徳島、総勢5人、乗用車につめこまれて出発、運転は私どもよりは何年か若いF君だ。無事に到着、宿泊は低料金の「簡保の宿」。残念だったのは、私とF君以外は、みんな下戸。食べる方も少ない。それが、健康のためだとかいう。やむを得ず、私とF君、差し向かいで酒を酌み交わし、料理を喰う。他の者は黙々と箸を動かしていた。食後、お互いの近況報告、何かをやっているという人はいなかった。私は始めていたブログを紹介したが、頷く人はいなかった。

 

 そういえば、パソコンどころか、携帯、インターネットなど、この人たちには、まだ無縁の時代だったのだろう。誇る気にはなれなかった。たまたま、私の場合、それを扱い、私に教えてくれた人が傍にいたということだけである。「現役」のとき、文章を書くことを余儀なくされていたのが幸いしていたともいえるだろう。良き環境、習慣に恵まれていたのである。翌朝、洗面所で驚いた。透明な水の入ったコップには、F君と私以外、すべての人の入れ歯が入っていた。綺麗にして嵌め込むのだろう。20年後の今、私がそれをやっているのである。

 

 今、この仲間たちとの交流はない。みんな90歳前後の人たちだ。どうしているだろうか。何人かの訃報はもらっている。老いても、私よりもいくつかは若いはずである。軍隊経験はないにしても、戦時と敗戦直後の苦労は味わっている、死ぬか生きるか、食うか食わずか、その時代を生き抜いた、貴重な存在であることはにはちがいない。戦中、戦後を語れる人ではないか。「あの時代」を生きたことの意味、その価値は貴重である。かつて、人間の自由と人権を奪い、暴虐な侵略戦争に駆り立てた連中を告発する権利の保持者である。一日でも長く生きてと願う。私も、その仲間の一人である。歯痛なんかに負けてたまるか。


コンビニの「人」を書いたつもりだが

2021-07-14 12:44:05 | 日記

 7月8日付の記事「沈黙の店」は、『コンビニ論』を展開する気で書いたものではない。この店を経営する人とその家族、そこで働く人、そこで商品を買う人を書いたたつもりである。何人かの親切な友人たちが、辰巳コータローの報告や、なにがしかの専門書をあげて「これらは参考になりますよ」と教えてくれた。有り難いアドバイスだと感謝している。ある友人などは『セブンーイレブンの罠』という豪勢な単行本(渡部 仁 著・発行ー株式会社金曜日)を送ってくれた。だが、私には難しい専門書を読んでコンビニ論を展開する気など、全くなかったのである。

 

 描きたかったのは、いや、描けるのはコンビニにかかわる人間模様であった。しかし、このためには『コンビニ』とはに触れないわけにもいかないだろう。そんなつもりで最低限、コンビニ論らしき一端も書くことは書いている。もともと、この記事「沈黙の店」は、民主文学(7月号)所載の『ガラスの城』への感想をとの求めに応じたものである。幸いにして、私が、この作品に惹かれたのは次の一文だった。「いずれにせよコンビニにはいろんな人達が出入りし、様々な人間模様が垣間見える」というところであった。私でも、コンビニに出入りし、近くから、遠くから、いろんな人間を見ている。その模様なら下手でも書ける。

 

 専門的なコンビニ論の展開は、その道に達者な人がやっているだろう。私などは足もとにも及ばない。だが出入りする人のことなら書ける。私も、家族も、友達も出入りしている。そんなわけだから、何か書けるだろう。そんな気分で「沈黙の店」を書いた。私もよく出入りする人種の一人だと思っている。財布の中が乏しくなったらコンビニの自動機の前に立つ。最近、銀行など行ったことがない。郵便局への往来も減っている。私も、余り目立たないが「いろんな人たちが出入りする」さまざまな人間の一人なのである。もう真夏が近い。孫の都合次第だが、釣りとなれば、必ずコンビニで氷を仕入てクーラーボックスに詰め込む。


沈黙の店

2021-07-08 13:49:04 | 日記

 定例サークルで「ガラスの城」(民主文学7月号・作・村城 正)という創作の論評を受け持たされた。読んでみて、何で俺がこんな作品にあれこれ言わねばならないのか。恨めしくなった。通常、他の会員は宛てられると、作品のあらましを簡単に箇条書きし、ご自分の感想を書いて配ってくれる。私も、そうすべきなのだろうが、やる気が起こらなかった。ずるいではないか、批判は甘んじて受けるつもりだ。

 この作品の主役は、コンビニを経営する信子、詩織という母と娘である。コンビニが小説の舞台になるのは、時代の反映と言うべきだろう。私も孫がくると誘われて同行することしばしば。夜、遅くなっても開いているからだ。そのたびに感じるのは、ここは沈黙の店だということである。商品のあり場所を聞くと、店員が手か顎でそこを教えてくれる。レジでは無言で自動支払機を指さす。そこに札と硬貨を入れて終わり。「有難うございます」の言葉も滅多に聴かなくなっている。

  小説の構成は、春、夏、秋、冬と章を分け、その時々の身辺の出来事、何があってもコンビニから離れられない事情が綴られている。春には「店でやる仕事はいっぱい」夏、娘の詩織が花見見物に「楽しかったけど、何かみんな楽しそうに大学の話ばかりしている」。いくらか私の胸もゆさぶられた。秋、コンビニの総売り上げの45%は本部に、取り分は55%しかないことを教えられる。売れずに廃棄した商品は、店側の経費として負担させられる。コンビニも儚い小売商なのだと知る。

   私は、この本以外にも「コンビニ小説」のいくらかは読んでいる。芥川賞を得た『コンビニ人間』(村田 沙耶香・文芸春秋)もその一つ。大学を出てから18年間、コンビニで働いた女性の一人称の物語である。「店員でなくなった自分がどうなるのか、私には想像もつかなかった」「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです」。解説者は「企業側から見れば、これほど"都合のいい"労働者はいないともいえる」と批評を加え、そして「・・・時代が生んだ小説である」と"評価"している。