明日につなぎたい

老いのときめき

「役小角仙道剣」を読む

2006-05-30 17:50:01 | 日記・エッセイ・コラム

 

 黒岩重吾氏は、大阪出身の著名な作家である。数々の意欲作を出して、高い評価を得ている。ご自身が、戦中、戦後に味わった苦闘の故だろうか、人生、社会、時代を語るとき、そこには必ず庶民の営みがある、そんな作品が多いと聞き及んでいた。しかし、何故か、同氏の小説を読む機会を逸していた。5月のある日、書店で「役小角仙道剣」という本を見つけて買った。文庫版だが、かなりの長編小説である。著者は、03年に79歳で病没されるが、その1~2年前に「小説新潮」に連載されたとあるから、新しい作品だといえよう。7世紀後半・古代のロマンチックな物語だが、現代に通じるものを考えさせてくれる。

 主人公は、役小角(えんのおづぬ)という修験者。活躍の場は、金剛、葛城、生駒、吉野、大峯、熊野の山々、大和、河内の地名が出てくる。私も歩いた、お馴染みのところだ。役小角は、修行で独特の能力を得たが、荒行に脅え、女性を想って悶える、生臭い人間であった。だが、勇敢な弱者の味方である。ときは「律令国家」といわれる、天皇を頂点とする中央集権の統一国家が形成されつつある頃である。法律、制度は支配者のため、土地は国家のものとされ、農民は、苛酷な税金と労役、兵役を課せられ、逃亡するものは残忍な刑罰を加えられる。役小角は、この時代を憎み、これまた人間臭い弟子たちとともに戦って、庶民を助け、救い、信望を高める。

 役小角は、集まってくる民衆を指揮して、大和川など河川の改修工事をすすめる。農民たちは、労役のときとは別人のように、嬉々と働く。後の名僧・行基が見学にくる。小角の名声は上がる一方。これを妬むものが、小角の母親なる女性を人質に、伊豆流転を受け入れさせる。「解脱」の心境にある小角は、悠然と伊豆に下る。この小説での役小角は、求道者ではあったが、説教者ではなかった。人間の煩悩にも肯定的だった。一方、法令が誰のためのものか、事あるごとに批判を加え、弱者のために、己の力と技を使う人物であった。こんな役小角像が印象深い。なお、作中の行基もそうだったというが、当時の支配層も含めて、朝鮮半島からの渡来人の子孫が多く出てくる。日本とアジアの関係、考えさせられる。


「教育基本法」と「教育勅語」

2006-05-25 13:19:05 | 日記・エッセイ・コラム

 

 「教育は、人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して・・・学問の自由を尊重し・・・自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献する・・・教育は、不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである・・・」。以上は、教育基本法の第一条(教育の目的)、第二条(教育の方針)、第十条(教育行政)の私流の抜粋である。立派なものだと感心する。戦時中、「教育勅語」を叩き込まれた経験者の私としては、その感一入である。

 

 政府は、かねてから企んでいた、この「基本法」の全面改定案を今国会に持ち出してきた。今日、論戦だ。だが、かみあっていない。何故か。相変わらず、この基本法の改定理由の説明がないからなのである。「現代の要請にこたえるため」とは言ったことがあるそうだが、現行基本法のどこが「時代の要請」にこたえられていないのか、なんの根拠もしめされていない。自民党、公明党の幹部たちは、少年犯罪、耐震偽造、ライブドア事件など、いろんな社会問題を教育のせいにして、「だから基本法改定だ」と言ったという。こじつけも甚だしい。噴飯者だというと不謹慎だろうか。「基本法まじめに見たのか」聞きたくなる。

 

 子どもの非行や学校の荒れ、学力問題など、解決の基礎は、教育基本法にこそある。だが、政府・与党の腹はそこにはない。あるのは敵意である。新たに第二条をつくり「教育の目標」として「国を愛する態度」を明記し、これを、学校、教職員、子どもたちに義務づけたいのである。これが本音だろう。どう言いつくろうが、内心の自由に立ち入って「愛国心」を強制することである。「君が代」を歌わなかった生徒の多かったクラスの教師が処分された、東京都の一例を見るだけでも明らかではないか。私は何故か。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。哀れにもそらんじさせられた、教育勅語の一節を思い出した。


大間違いー正す規範はなにか

2006-05-18 18:30:26 | 日記・エッセイ・コラム

 

 前稿の続きである。私は憲法を引用した。「人間は平等である。差別してはならない」「公務員は全体の奉仕者。一部の奉仕者ではない」。これそのものが差別を含め、あらゆる差別をなくする根拠であり、かつ政治本来のあり方だと確信しているからである。わが大阪市で、この原点を踏みにじった「解同」(朝田派)の蛮行が横行する。自治体が屈服し、情けなくも「一部の奉仕者」に成り下がったかに見える。それが「表面化」しはじめたのである。この際、しっかり原点に立ち戻って始末をつけろ。そう言いたかったのである。

 「解同」の全国委員長だった朝田善之助は、「差別観念が空気のように一般的普遍的に存在する」「部落住民以外は生まれながらの差別意識の持ち主」という「理論」を唱えた。これが「解同」の活動の拠りどころとなる。これに異論をもって正論を主張する人たちは組織から排除される。「解同」の暴力、脅迫、差別糾弾が始まる。発端は「矢田問題」(東住吉区)。69年4月、組合役員選挙で労働条件を訴えた挨拶文が「差別文書」ときめつけられ、11名の教師が監禁、脅迫された。市教組も市教委も屈服、11名は不当配転。「挨拶文」は踏み絵にされ、差別とみとめぬ教師は激しい糾弾、迫害に合う。

 「解同」は、この暴挙を厳しく批判する共産党を「差別者集団」だときめつけ、市議除名を策し、市役所に大挙乱入、暴力を振るう。69年8月、市会議長に迫って臨時議会を開かせ、自社公民の賛成で「同和問題に関し共産党大阪市会議員団の反省を求める決議」を採択させる。説明、討論なしの2分間だった。かくして市も議会も「解同」いいなりに。「解同が支配する「市促進協議会」とその傘下にある地区協議会がつくられ、市の同和事業は、この「市同促」への委託をつうじて行われる。「解同」の独占体制だ。

 もう30何年も前の話である。知らない、忘れたという人も多かろう。70年代に入ると、住宅の公正入居をすすめた羽曳野市には、120日間も庁舎に乱入、市長を監禁する。校内に「部落研」設置を認めなかった八鹿高校(兵庫県)の教師68名に「解同」数百名が「糾弾リンチ」、56名が重軽傷。このひどい事件は覚えておられるだろう。こんな暴挙がなくとも、差別は、民主憲法のもと、時代とともに制度も意識も克服しうるのに。現に同和事業の必要はなくなっている。「解同」に屈し、政治を歪めたものは、憲法に立ち戻り、しかるべき責任を果たすべきではないか。


地方政治の原点に立って

2006-05-14 11:21:02 | 日記・エッセイ・コラム

 「利権めぐり事件次々表面化」。こんな記事が新聞に出るようになった。テレビでもとりあげられることがある。何十年も前から不法、不当な同和事業が続いている大阪のことである。「今ごろ遅いではないか」と言いたくもなるし、明るみに出たのは「氷山の一角」にすぎない。だが、とにもかくにも、「タブー」がほころび始めた兆しのようにも見える。これを機会に、大阪市政の闇の構造にメスが入れられ、ひいては市政全般の歪みを正す道につながればと思う。

 「表面化」したうちの二件。一つは、市がこの39年間、一民間病院にすぎぬ芦原病院(浪速区)に、同和対策だとして、貸付金、補助金あわせて320億円もの巨費を投じたが、貸付金の回収は不能、補助金の不正流用の疑惑濃厚という問題である。もう一つは、財団法人「飛鳥会」の小西邦彦理事長が、市から委託された駐車場運営の収益金を着服(毎年6000万円前後か)、業務上横領容疑で逮捕されたという事件である。小西容疑者は解放同盟(「解同」)支部長をやり、暴力団ともつながっていた。建設協会の有力者でもあり、彼の一声で、市の発注工事の多くが建設協会加盟業者の手に落ちたという。

 この二件は、利権の典型例だろう。多くの市民が厳しい眼を向けている。市長、職員、「」関係者は、どう始末をつけるつもりだろうか。大事なのは原点に立つことだ。「すべて国民は、法のもとに平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的又は社会的関係において、差別されない」「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」。この憲法の規定に照らして自らを省みて欲しい。解放運動は、国民と提携して進める民主運動である。「民以外はすべて差別者」だと言って、他者の人権を傷つけ、自治体に寄生して利権を独占するなど、もってのほかではないか。

 大阪では、公正民主的な同和行政と、自主民主の教育を求める粘り強いたたかいが続いている。国の「同和対策特別措置法」のもとで、地区の環境改善が進み、一般との格差は是正され、2002年「同特法」の根拠は消滅、予算を組む必要はなくなった。市の機構、予算にの文字はない。だが、人権センタ―、人権協会と名づけたところに人も金も投じている。「解同」の「既得権」の保障ではないか。先ず、これを改めるのが事態解決の第一歩ではなかろうか。なお、何を恐れてか、長く「」を避けてきたマスコミには、今後は大いに真実の報道を期待したいものである。

 


私の「連休」

2006-05-08 22:15:01 | 日記・エッセイ・コラム

 私の日常は「連休」である。世間でいうG・W直前のある日、家にきた孫娘が金魚の水槽を見て言った。「おじいちゃん、メチャ汚れてるで」。「ほんまやな。洗うわ。休みになったら手伝いに来てくれるか」。「うん、わかった」。4月30日に来てくれた。大張り切りだった。澄みきった、綺麗な水槽に変貌する。久しぶりだ。ここに住む「主」はともかく、人間どもの気分は爽快だった。

 翌1日の夜、近所の若いお母さんが訪ねてくれた。妻と一緒に医療生協の活動をしている人だ。ヘルパーの待遇改善にとりくむ組合運動の苦労話や抱負、介護活動への熱い想いを話してくれる。「ようやるなぁ」、感心しながら耳を傾ける。「現役」を退いた私にとって、目標をもって働く、若い人たちの生の話ほど有難いものはない。元気をもらえるのである。

 4日朝、孫娘から電話あり。「緑地公園に行ってサッカー遊びしよう」。私と妻、二つ返事でOK。この子の両親ともども自転車で現地に走る。沢山の人が来ていたが、なにしろ広い。伸び伸びと、五月晴れのさわやかな大気を満喫する。翌5日、近所で「子どもの日」の行事あり、孫は人形劇「3匹の子ぶた」を楽しみ、ケン玉、紙トンボづくりに興じていた。

 7日は「連休」最終日。低気圧の通過で大雨の一日だった。何故か不快感を催す。天候の所為ではない。ささやかな庶民の楽しみなど、冷たく押しつぶしてしまうような、理不尽な政治・社会の現実に引き戻されるからである。最近、日米両政府が合意したという在日米軍再編は、自衛隊との軍事一体化、莫大な費用負担をもたらす。「連休」明け国会では、行政、医療、教育に関する改悪法案が目白押し。強行されれば、暮らしも民主主義も平和もいっそう脅かされる。

 この日の朝、NHKの「日曜討論」をみる。与党代表は「高齢化社会で医療費支出は増える一方、保険制度継続のための法案成立」を主張する。「米軍のために何兆円もの金を出すことが云々されているときに、お年寄りだけに負担を強いるのは通らない。病院に行けなければ予防も出来なくなる」という小池さん(共)の発言に鋭さと人間味を感じた。午後、医生協・ヘルスコープ旭東支部の06年度総会に行く。悪天候なのに満席。立派!晴れやかな気分になった。

 私の「連休」はこんな具合であった。