児童、生徒の「いじめ自殺」。なんと悲しく痛ましい出来事だろう。心ある人たちの胸は張裂け、思考も混迷したことだろう。やがて、気を取り直し、大人の責任を自覚して、この悲劇の背景、原因を考え、打開の道を探り始める。一刻も早い解決が求められる事態だが、問題は複雑、多様である。そのなかで肝心なのは何かを考えて見た。当事者・犠牲者は児童、生徒である。先ずは、この子たちの気持を知ることではないか。学校、家庭、地域社会に何を感じ、何を望んでいるのか、これらを知ってこそ道が見えてくるのではなかろうか。教育のプロか否か、気にすることはない。あらゆる手をつくして、何万、何十万の児童、生徒の声を集めるべきだ。これが大前提だと思うのだがどうだろう。
三浦綾子さんの小説・「銃口」で、主人公の小学校教師が、綴り方(作文)を書くことの大切な意味を語っている。大いに共鳴したことを覚えている。その一こまを、省略の失礼を顧みず、敢えて紹介させてもらう。「ひとり一人の人間が、いろいろの生活を感じ、見つめて生きている。世界でたった一つのものを生み出す。すばらしいではないか」「ひとり一人が本当に尊い命を持っている。そんな尊い自分の思うことを、誰にも遠慮せずに吐き出す。なんでも言える、それが最高の世の中だ」と。「書く」を「言う」に置き換えてもよいだろう。世界で一人しかいない自分だ、これに目覚めれば声をあげてくれるだろう。子どもたちの「考える力」は、言う、読む、書く、これで育っていくのだろう。
何年か前に、中学一年生の感想文を見る機会があった。多くは「よい友達を沢山つくりたい」だったと記憶している。卒業生の文集も見た。やはり友達を得たことへの喜びが大勢だった。これが子どもたちの自然な”本能”だろう。いじめはそれを抹殺する。よき友をと願ったもの同士がなぜ他者を、自己まで否定するのか。要するに、大人たちのつくった差別、選別の競争社会、退廃文化の渦に巻き込まれ、ストレスがたまり、自分の存在意義も分からなくなってしまった。それがいじめの土壌なのだろう。この危機脱却のためには、子どもも含む国民的討論が求められる。この稿も片言隻句だがこのために書いた。今、教育基本法改悪などにうつつをぬかすときではない。現行法は「自他の敬愛と協力」を謳っている。子どもたちに訴えたい。よき友と一緒に生きようと。