明日につなぎたい

老いのときめき

友と一緒に生きよう

2006-10-31 23:45:35 | 日記・エッセイ・コラム

 

 児童、生徒の「いじめ自殺」。なんと悲しく痛ましい出来事だろう。心ある人たちの胸は張裂け、思考も混迷したことだろう。やがて、気を取り直し、大人の責任を自覚して、この悲劇の背景、原因を考え、打開の道を探り始める。一刻も早い解決が求められる事態だが、問題は複雑、多様である。そのなかで肝心なのは何かを考えて見た。当事者・犠牲者は児童、生徒である。先ずは、この子たちの気持を知ることではないか。学校、家庭、地域社会に何を感じ、何を望んでいるのか、これらを知ってこそ道が見えてくるのではなかろうか。教育のプロか否か、気にすることはない。あらゆる手をつくして、何万、何十万の児童、生徒の声を集めるべきだ。これが大前提だと思うのだがどうだろう。

 

 三浦綾子さんの小説・「銃口」で、主人公の小学校教師が、綴り方(作文)を書くことの大切な意味を語っている。大いに共鳴したことを覚えている。その一こまを、省略の失礼を顧みず、敢えて紹介させてもらう。「ひとり一人の人間が、いろいろの生活を感じ、見つめて生きている。世界でたった一つのものを生み出す。すばらしいではないか」「ひとり一人が本当に尊い命を持っている。そんな尊い自分の思うことを、誰にも遠慮せずに吐き出す。なんでも言える、それが最高の世の中だ」と。「書く」を「言う」に置き換えてもよいだろう。世界で一人しかいない自分だ、これに目覚めれば声をあげてくれるだろう。子どもたちの「考える力」は、言う、読む、書く、これで育っていくのだろう。

 

 何年か前に、中学一年生の感想文を見る機会があった。多くは「よい友達を沢山つくりたい」だったと記憶している。卒業生の文集も見た。やはり友達を得たことへの喜びが大勢だった。これが子どもたちの自然な”本能”だろう。いじめはそれを抹殺する。よき友をと願ったもの同士がなぜ他者を、自己まで否定するのか。要するに、大人たちのつくった差別、選別の競争社会、退廃文化の渦に巻き込まれ、ストレスがたまり、自分の存在意義も分からなくなってしまった。それがいじめの土壌なのだろう。この危機脱却のためには、子どもも含む国民的討論が求められる。この稿も片言隻句だがこのために書いた。今、教育基本法改悪などにうつつをぬかすときではない。現行法は「自他の敬愛と協力」を謳っている。子どもたちに訴えたい。よき友と一緒に生きようと。


「象列車」が走る!

2006-10-23 17:22:40 | 日記・エッセイ・コラム

 

 なんの涙だろうか。お母さんたちが目をうるませている。「もう胸一杯、泣けてきたわ」。こんな会話も聞えてきた。21日夜、城東区で行われた「平和と福祉の夕べ」の感動を伝えあう情景である。この日、孫娘が「合唱」に出演するというので夫婦で駆けつけた。もちろん両親も。会場は、ある中学校の体育館。校庭は自転車がぎっしり並んでいる。びっくりした。中学生の吹奏楽の演奏が終わり、割れるような拍手が送られていた。到着の遅れを悔やんだが後の祭り。広い館内は満席に近い。冷え込み始めた秋の一夜、決して便利とも思えぬ所へ、区内全域からよくもこれだけ、先ず、これで感心させられる。「福祉まつり」の伝統の力だろうか。なによりも、親子の情愛の深さ、絆の強さに感じ入る。

 

 それを見事に体現したのが、合唱組曲『ぞうれっしゃがやってきた』であったように思えた。合唱団は、地域、PTA、婦人組織、福祉職員、学童保護者会などの大人たちに加えて、相当数の学童・子どもたち、総勢215名と発表されている。この大合唱団が舞台狭しと並ぶ。実に壮観だった。『象列車・・』は、残酷な戦争を憎み、悲しみ、平和と命の尊さを歌い上げた「有名」な曲で、私も聞きかじったことはある。組曲として「体系的」に聴くのはこの日が初めて。子どもが精一杯、口をあけて歌う姿が健気で可愛い。相当な練習だっただろう。多くの人が涙したのは、戦時を生き抜いた象に会いに行く子どもの懸命さが浮かんだのか、子どもの成長の新発見だったのか、大人と子どもの一体感だったのだろうか。

 

 この「夕べ」は、例年の「福祉まつり」のプレ企画だそうである。平和と福祉は切り離せない。このことを痛いほど実感させられる昨今、実に当を得たイベントだと感じた。学童保育は、子どもが、明るく、賢く、たくましく成長、発達する大事な居場所だ。合唱での活躍を目の当たりにして、改めて痛感した。情けないが、政府、大阪府・市にはこの認識が薄い。予算措置も施策も冷たいものだ。だが、私たちには希望がある。お父さんもお母さんも若い。子どもの明日のために、平和と福祉のために、惜しみなく、エネルギーとパワーを発揮するだろう。我が家にきた孫娘は、CDに合わせて大声で「象」を歌っていた。それを耳朶に残しながら、翌22日、わが町・旭区の「第27回福祉まつり」に出かけた。


正気の沙汰か?!「核」保有論

2006-10-17 20:09:47 | 日記・エッセイ・コラム

 

 日本は、戦争による世界唯一の被爆国である。98年発行の中学教科書(大阪書籍)のこの部分を見た。「両市は一瞬のうちに壊滅し、犠牲者は数週間のうちに広島で14万人、長崎で7万人・・被爆者は半世紀後の今も苦しみ、犠牲者は増え続けている」「・・国民は核兵器の廃絶を訴え続け・・政府も71年以来『つくらず、もたず、もちこませず』という非核三原則を守ると約束」とある。さらに「わたしの顔や手を見てほしい・・ノーモア ヒバクシャ)という、国連軍縮特別総会での、被曝者代表の演説を紹介している。かなりの詳しさだ。ついでに、安倍首相や中川昭一・自民党政調会長が応援していた「新しい歴史教科書ー06年」(扶桑社)を見た。たった数行の冷ややかな記述しかない。軽すぎる!

 

 広島・長崎での外国人犠牲者、大部分は日本に連行された朝鮮人だったという。何万人が被爆し、何千人が死亡したか。辛うじて生存できた人たちも苦しんでいることだろう。韓国も北朝鮮も知らぬはずはなかろう。本来ならば、多くの犠牲者を出し、核兵器の恐怖を味わったもの同士が、相互理解と道理をもとに、適切に、被爆の傷跡を癒していく道を選ぶべきだろう。だが、北朝鮮は愚かであった。なんで核実験まで。狂気の沙汰ではないか。14日に、国連安保理事会が採択した北朝鮮制裁決議は、核兵器と核開発計画の放棄を要求するとともに、非軍事的措置で平和的外交的に事態解決をはかるとしている。アジア諸国民の願いは、北朝鮮が国連決議を受け入れて、非核・平和の道に向かうことである。

 

 愚かなのは日本にもいる。中川昭一政調会長は、民放テレビ番組で、北朝鮮問題にからめて「日本が攻められないように、核という議論があってもいい」と発言した。「お前が持つなら俺も」という発想、「核保有論」である。これに同意する評論家らもいるようだ。日本は唯一の被爆国。非核三原則を国是としている。絶対に核保有国にならない。だからこそ、どこの国の核計画に対しても堂々とものが言えるのである。「持つかも知れない」と云ったら、とたんに発言力は色あせる。アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリス、インド、パキスタン、イスラエルが核保有国である。核を使うな、減らせ、捨てろ、そう言う気概こそ必要なときである。障害は、アメリカの「核抑止力」なるものを認めた日米安保体制だろう。


80歳 優しさを忘れぬ

2006-10-12 13:06:22 | 日記・エッセイ・コラム

 今日で80歳になった。人の人間が自然に一つ年を重ねただけのことだ。殊更に感傷にふけることもない。普通だろう。それを承知しながら、感慨らしきものを書く。何故?いろんな事情で「80歳」を意識するようになり、そのときを迎えたら何か書かねばと決め込んでいたからである。どれほどの価値があるのか、深く考えたわけではない。だが、決めた限りは後に退けない。この思い込み、意地っ張りが「年寄り」の証なのかもしれない。世は荒波つづき、こんなときこそ、冷静に、穏やかに自らを顧み、もの想うのもよいではないか。

 

 私たちが尊敬する大先輩が、死の直前「人生八十功なきを愧ず」とかの漢詩の一節をつぶやいていた。それから40年。この「故事」が焼ついて離れない。「80歳」を意識させる因子だったのだろう。60年代、一緒に活動した「後輩」たちが、去年の夏、私の「傘寿」を祝う集いをやりたいと云ってきた。特別扱いは困ると断った。「当時の仲間が集まる口実だ。ダシになってくれ」というので了解した。温かい盛んな集いになった。「ダシ」にされた甲斐はあった。旧知の人から「おいくつ?」と聞かれる。「80歳」を否応なく意識させられる。

 

 私が職場を離れたのは97年秋。どう過ごすか。71歳であった。前向きに挑戦しよう。これまで人に言ってきたことである。先ず、家族、友人の助けを得て、パソコン・インターネットに着手。読書は乱読気味。映画をよく見る(DVD)。「散歩」で近所をうろつく。76歳、50年余の喫煙をきっぱりやめる。大ヒットだ。周りの人は仰天、そして喜んでくれた。78歳でブログ開設。社会派と称される。この記事で136本目の更新。読者の励ましが有難い。そして80歳に。メリハリのない「功なき」70歳代だったが、存在だけは認めてもらえるのでは。

 

 最近、しきりに医療や教育の荒廃、弱者、高齢者への冷たい仕打ちが話題に出る。社会全体が優しさを探し求めているときのように思える。ある日、夫婦で某デパートに行き、小さなガラス細工を求めた。若い女店員さんが素敵だった。こんな女性もいるのだ。安い買い物なのに、丁寧な包装、持ち歩きの注意、優しさが伝わる。明日を担える人がここに。インスピレーションというのか、この偶然を信じたい気になった。もう女性の顔もおぼえてないし、二度と会うこともないだろうが、あの優しさを忘れず、楽天的に80歳を生きよう。


心の自由は守ろう!

2006-10-08 17:19:22 | 日記・エッセイ・コラム

 

 私は先日(10月1日)、異常な日本の政治のいくつかをとりあげ、安倍内閣が今国会で成立を狙っている教育基本法改悪もその一つだと書いた。小泉政権下の前国会での改定法案提出、審議の経過を振り返ってみた。やはり異常だった。政府が出してきたのは、現行基本法を廃止して、新法にすげかえる全面改定案であった。それならば、当然、現行法の問題点や改定理由を明確にするべきだろう。だが、それらのまともな説明はなかった。常識も失せているのか。現行基本法が余りにも立派だから、正面攻撃を避けざるを得なかったのだろうか。そう云いたくなる。安倍晋三氏の「美しい国へ」は「教育再生」を熱っぽく打ち上げているが、私の目には「教育基本法」の文字が入らなかった。何故だろう。

 

 小泉内閣当時の文科大臣は、委員会質疑のなかで「いじめ、不登校、学力低下、青少年犯罪」などを例にあげ、「現行基本法は時代に適合しきれなくなった」と言ったという。筋違い、的外れも甚だしい。「人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民を」「学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって文化の創造と発展を」。これが現行基本法に謳われた教育の目的と方針である。この通りの努力があれば、教育と子どもをめぐる危機は避けられたであろう。教育基本法に濡れ衣を着せ、その全面改悪を許せば、更なる危機を招くだろう。

 

 政府案の、第2条「教育の目標」にひっかかる。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する・・態度を養う」とある。態度とは、心の問題である。02年、学習指導要領(小学校6年生)が、愛国心を目標に明記したら、全国各地で「愛国心通知表」が広がったという。基本法がそうなれば、国を愛する「態度」が成績評価になるかも。この強制に子どもの心の自由はどうなるだろう。いま一つ。現行の基本法は10条で「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」としている。政府案は「国民全体に・・」を削除し「この法律および他の法律の定めるところにより行われるべき」に置き換えている。権力介入への道ではないか。憲法の民主理念に徹した教育の破壊、危険な意図が見えてくる。