明日につなぎたい

老いのときめき

ぽぅっと生きてるんじゃねぇよ

2019-12-29 15:28:20 | 日記

 「ぽうっと生きてるんじゃねぇよ」。テレビで出てくるチコちゃんとかいうキャラの科白(せりふ)である。私も思い当たることがあった。昨日(28日〕の朝、ある会合に参加すべく家を出た。服を着かえたので、敬老無料パス入りの定期入れを忘れたと勘違いして、M駅で、小銭入れから210円を取り出して乗車券を買った。ぼうっとしていたからだ。さらに、小銭入れの小袋を券売所に置いたままホ―ムに上がり、入ってきた電車に乗った。目的のT駅に着いてから置き忘れに気がつき、駅員に頼んでⅯ駅に照会してもらったが、見当たらないという返事だ。がっくりした。

 

 会場へ向かう途中、ふと内ポケットに手を入れたら、なんとパスの入った財布兼定期入れが入っていた。ぼぅっとするにも念が入っている!「小銭入れ」など使う必要はなかったのだ。晴れぬ気分で出席者の報告や討論を聴き、久しぶりの仲間や後輩たちに会えて、鬱陶しい気分も遠ざかっていったが。帰途、あきらめずにT駅で「忘れ物」の件を聞いた。「ありましたよ。Ⅿ駅で保管しいてます」との返事だった。「うわ―」、普段、大声を出さぬ私だが、この時は特別だった。周りに響いたのではなかろうか。些細なことのようだが、ものすごく嬉しかった。

 

 近頃の私は、物忘れ、早とちりが多くなっているようだ。ちゃんと目標をもって生きてるつもりだが、齢とともに、ぼうっとしている時間も、徐々に増えているのではなかろうか。それは、恥も外聞もなく認めようと思う。この自覚がなければ、、もっとひどい呆けた老人になるだろう。Ⅿ駅では失態だったが、T駅では、その取り返しのために正常に手をつくした。「ぼぅっと生きてんじゃねぇよ」。コメディ・ドラマのギャグなのだが、私には有難い示唆だった。これからも私なりの働きはするつもりだが、高齢の私には「ぼぅっとする」ひと時も大事な気がしている。齢には関係ないか。

 

 

 


盗まれた、返ってきた自転車

2019-12-26 15:01:47 | 日記

 何かと気ぜわしい年末の話題の一つだ。私は、去年の秋頃に、日本民主主義文学会 大阪北支部に入会している。「民主文学」という同会の月刊誌は、友人に勧められて、時々には読んでいた。入会のきっかけは、会員数の停滞などで、組織的にも財政的にも危機にある、との訴えを何かで目にしたことであった。私なりに、これは只事ではないと思って『よう書かんけど、読むだけやで』との勝手な条件付きで、準会員として入会した次第である。1年ほど前のことだ。正直なところ、熱い文学志向が私をこの会に踏み込ませたというわけではなかった。

 

 それでも、定期的に行われている例会には真面目に出席している。「民主文学」に掲載された作品の合評など、各人の意見で啓発されることがある。93歳にもなっている私の"新発見 "の場ともなっている。大阪北支部の機関誌「わんど」が発刊されたが、私のブログ記事(”私の文化三題””厚のブログ日記”)も載せてくれている。昨日(25日)の例会では、女性会員の投稿「S駅前にて」が話題になった。20年前、駅前に置いた自転車が無くなった。盗ったのは、実家は鹿児島という21歳のバイト女性。自分の息子と同じ年。自転車は戻った。感慨こめてパトカ-に乗った彼女の後姿を見送る。温かい作品だと感服した。

 

 私の意見を問われた。「最近、家庭用の台車を盗られた。思い出したのは、10余年前、孫が高校生になったとき、お祝いにピカピカの自転車を贈った。それが翌日には盗まれた。私の腹は煮えくりかえった。同時に、これで孫が人間不信になってしまわないか、そんな不安がよぎった。人の物を盗るのは、人の心まで傷つけることになる。この怒りは今も治まっていない」と言った。それだけに「S駅前にて」を一入、優しく、柔らかく感じたのだろう。盗むヤツもいろいろだろうが、人の心を踏みつけるようなことはしてほしくない。強く実感している。

 

 

 


年内によく考えて・・・

2019-12-23 13:45:55 | 日記

 今朝の毎日新聞投書欄に出ていた。「こんな政権こそ反社会的だ」。まったく同感だ。毎年の4月、政府主催で行われる「桜を見る会」には「各界において功績、功労のあった方々を招き、日頃のご苦労を慰労する」ことになっている。ところが今年の「見る会」には、悪徳商法を繰り返し、多くの被害者を泣かせてきた「ジャパンライフ」(破産手続き中)の山口隆祥会長(当時」が招待され顔を出していた。安倍政権は2007年には、反社会的勢力とは「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団または個人」と定めている。にもかかわらず、その代表格のような者を招いた。何故だ。安倍総理のお友達だからなのか。

 

 先般、吉本興業所属のある芸能人が、暴力団との接触を理由に出演停止の処分を受けたとのニュ-スを知った。政府の関係者は同じことをやっても不問にされる。「桜を見る会」の場で、菅官房長官がジャパンライフの元会長と並んで写真を撮っていた。私もテレビで見た。呆れた、恥知らずだと思うしかなかった。同じことをやっても、政府、与党の幹部は許されるが、一介の芸人は何らかの制裁を受ける。権力者はフリ-パスか。安倍一強とかいわれる独裁政治のもとで、世の中の不公平が罷り通る。ひどすぎる。

 

 同日の新聞投書の横にも、成程、これが世論かと思える投書があった。「旧友とともに立腹したわけ」とある。「・・2人とも無性に腹が立っていた・・・なぜ、安倍晋三政権や官僚は、平気でうそをつくのか。桜を見る会や森友、加計学園の問題のどれをとっても解決していない。隠蔽、改ざん、公文書廃棄・・・。しかし、我々庶民がどれだけ腹を立てても、所詮は「ごまめの歯ぎしり」だ。私は、公文書偽造を強いられて自殺した財務職員の悲劇を改めて想った。投書された二人の憤慨よくわかる。だが、この人たち、正解を出している。「国民一人一人がよく考えて1票を投じてほしい」と。みんな、よく考えて、この年を送ろう。


12月の収穫

2019-12-17 18:16:01 | 日記

 毎週、金曜日の午後、ある学習会のレクチャ—に出かけている。定期診察の際、主治医の先生との雑談のなかで、何気なくこの話をしたら、先生がびっくり。「93歳にもなって、まだそんなことやらされているのか」。「いや、そんなことではない、お陰様でボクが元気でおれる証しですわ」「少人数のなかで、ゆったり喋る程度にしてくださいよ」「はい、そういうことにします」。やりとりはここまで。何をテ―マにしているのか。大袈裟に言うと、戦後の社会運動と私の人生体験を混ぜたような話である。1950年代から始めて、今、90年代を終えたところだ。

 

 10年分を1時間余りで済ますのは至難だ。本棚から取り出した文献、資料を見ながら話しを進める。ベトナムやイラク戦争はじめ、世界の出来事も話さないわけにはいかない。聴いてくれる人は、私より、はるかに若いが勉強熱心な仲間である。私の訥弁に耳を傾けてくれている。しかし、途中、憮然となるときがある。「みんな分かりきっていること」を喋っているのではないか。そんな気が胸中をよぎるのである。割り切って、彼、彼女たちに物心がついていない頃の「昔話」でもと思うが、それでは社会科学の勉強にならない。

 

 とにかく、21世紀・2000年代の話に入る前に終わったのだ。ほっとしている。これからも続けるのかどうか、主催者に聞かなければ分からない。12月9日、孫娘のいる大学吹奏楽部のコンサ―トに行った。私にとっては、丁度いい時期であった。気分転換にはグッドタイミング。猛練習を重ねてきたであろう、スタッフ、メンバ-の苦労が分かっているのか、そう言われるかもしれないが、とにかく音楽は年寄りも癒してくれる。音楽は「力」を持っている。この世界を余り知らぬものにも生気を与えてくれる。それが音楽だ。12月のいい収穫だった。

 

 


「維新の会」の都構想は大阪市廃止論—革新懇世話人会で

2019-12-15 16:48:11 | 日記

 昨日(15日)の午後「進歩と革新をめざす大阪懇話会」(略称・大阪革新懇)の世話人会に出席した。この団体は「暮らし、平和、民主」の革新3目標で一致する政党、団体、個人が集まった、超党派の共同組織である。1980年5月結成だから、ほぼ40年の歴史をもつ。自由に何でも云えるところだ。全都道府県につくられたが、市・町・村単位に、さらには職場にも革新懇ができて、多様な活動がとりくまれている。対応する中央組織として全国革新懇がある。1980年といえば、社会党(現社民党)と公明党が、共産党を共闘から除くとした”社公合意”が成ったときである。

 

 以来、政党間共闘を軸とした共同・統一戦線は冬冷えのようだったが、去年、自衛隊の海外派兵に道を開く安保特措法案に反対する、共、社、民などの国会内共闘が実現し、2000年代の衆参選挙では、野党共闘で自民党と闘った地域も生まれている。しかし、他方では、自民党の補完勢力である日本維新の会が台頭してくる。少なからぬ人の目には、この党が反自民勢力であるかのように見えたのだろうか。何としても、革新・民主勢力の進出をさえぎろうとする、支配層中枢の狡猾な策謀、「維新の会」出現は、それと無関係ではなかろう、それを見抜く必要があるだろう。

 

 この世話人会でもう一つ話題になったのは「維新の会」が熱をあげている、大阪市を廃して大阪を一本に、ONE大阪にするという大阪都構想のことだった。出版物も出ている。この論者の代表格、堺屋太一氏(故人)、上山信一氏(慶大教授)、橋下 徹氏(前大阪市長)らの言い分は、共通して逆立ちしている。市民の声や要求は後回し、まず大阪の機構だ、体制だ、形だ、中身より容れ物が先だというのだ。私は80余年、大阪市に住んでいるが、大阪市を無くしてくれという市民の声など聞いたことがない。大阪市民でもない者が、横から上から知ったかぶりの「説」など口にするなと言いたい。革新懇は何でも言えるええところだが。